いつそば「観心の章」 |
如来寿量品をお説きになった後、お釈迦さまは弥勒菩薩に対し「仏の寿命が無始無終で永遠であること、その教化が無限であることを聞いて、一念の間でもそれを信じる(一念信解=いちねんしんげ)ならば、その人が得る功徳(くどく)は量り知ることができない」とお告げになりました。そして、その功徳について詳しく明かされるのです。
「ある者が仏の真実の教えを知りたい、仏と同じ気持ちになりたいと願い、八十万億那由佗劫(はちじゅうまんのくなゆたこう)という数え切れないほど永い間、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)という五波羅蜜(ごはらみつ)の修行を重ねたとする。しかし、この五つの菩薩行の功徳がいくら大きくとも、仏の寿命が永遠であることを聞いて、ただ一瞬でも信じたならば、その功徳には比べようもないほど違いがある。五波羅蜜の功徳はその百分の一か千分の一、いや百千万億分の一と言っても及ばないくらい、信の功徳は大きいのだ」 久遠実成(くおんじつじょう)の本師釈迦牟尼仏(ほんししゃかむにぶつ)、すなわち永遠の寿命を持ち、娑婆世界(しゃばせかい)に住む私たちにとって本当の師であるお釈迦さまは、姿は見えなくても常に私たち衆生のそばにいて、瞬時も止めることなく仏の境地へ導こうとして下さっています。そのことを信じることの功徳は、どんなに計算をしようとも、どんな譬(たと)えを使ってみても、とうてい言い表すことができません。 こうして、お釈迦さまが常に実在することを信じる功徳は、仏の智恵に匹敵するほど尊く無限であることを、繰り返し明かされるのです。 |