もし、あなたの子供が怪しげな宗教に入信したなら、あなたはどうするだろうか。「うちは代々◯◯宗だ」ととがめたとしても、子供から「○○宗というのは先祖供養の習慣みたいなもので、本当にその宗教を信じている訳ではないだろう」と言われたら……。
私の名は阿難(あなん)。今もお師匠さまの説かれる、光と風の世界を旅している。
そもそも宗教というのは、一言で言えば「何を信じるか」「どのように信じるか」の二点が根底になっている。だから、信じる対象と信じる方法が、正しいか間違っているかを論じるべきだろう。
尊きお師匠さまは北インドにお生まれになり、十九歳で出家され、三十歳で悟りを開かれたと誰もが思っていた。けれども、実はすべての仏さまを時間的に統一される「本覚仏(ほんがくぶつ)」であり、空間的にも統一される「根本仏」であると明かされた。だからお師匠さまのことを、永遠の命を保たれている「久遠本仏」とお呼びする。
つまり「何を信じるか」という問いには、時を超えて今も実在し、どこにいても導いて下さるお釈迦さまを信じれば良い、という答えになる。
お師匠さまのお説法の記録であるお経典は、同じ読み物であっても、学術書や小説などとは大きく異なる。学術書であれば内容を理解し、自らの学問に援用したりするだろうし、小説であれば興奮や感動を目的として読むだろう。
しかしお経典は、その心を会得するために読むものだ。会得とはすなわち生まれ変わること、心が再生することを意味する。法によって生まれ変わる、これが仏さまから頂く功徳(くどく)なのだ。
お師匠さまのお説法の結論は「我々の住むこの世界が、そのまま仏の浄土という本来の姿を発現できるよう、全力を傾けて精進しなさい」ということ。お師匠さまの永遠の命を信じ、そのように菩薩の道を歩むことが、「どのように信じるか」という問いに対する答えになるだろう。
お師匠さまは、あの霊鷲山(りょうじゅせん)の頂(いただき)で、その功徳を十二種類に分けてお説き下さった。例えば「強い者の前では卑屈になり、弱い者の前では尊大になるような、つまらないとらわれから離れることができ、自然な形で善を保ち、悪を止めることができるようになる」「何の見返りが無くても、どんな苦難に耐えてでも、最も大事な教えである法華経を説くことができるようになる」と……。
皆がこの世界を浄土と観ることができる世の中にするためには、久遠本仏の実在と導きを信じることがまず第一なのだ。
「この事実を素直に信じ、有り難いことだと受け入れたなら、その功徳は無限である」
お師匠さまはそのように語られた。
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