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日蓮聖人は、今の千葉県・小湊(こみなと)の地に漁師の子としてお生まれになりました。ご幼名を善日麿(後に薬王麿と改名)といい、父の名を貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)、母を梅菊といいます。
十二歳で学問を志された薬王麿は、清澄寺へお入りになります。伝えるところによりますと、母・梅菊に手を引かれ清澄山に入る道中、女人堂(当時清澄山は女人禁制であった)で母との別れの際に、「薬王麿は日本国を救う僧侶になりまするぞ」と誓い入山したといわれます。 さて入山後、長じて十六の歳にて道善房を師として出家され、その名を是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と改められました。いよいよ出家としての道を歩まれるのです。 兄弟子には義浄房・浄顕房のお二人がおられましたが、「遠国なるうえ、寺とはなづけて候へども修学人なし」と、聖人の学問に対する欲求を存分に満たして下さる存在では無かったようです。ですから「随分諸国を修行して学問し候」と、鎌倉の諸大寺や、当時の仏教総合大学ともいえる比叡山をはじめ、畿内の各寺院にて研鑽に励まれたのです。 十二の歳より二十年かけて研鑽された結果、到達されたのは「釈尊の本心」でありました。それは言うまでも無く法華経であり、お題目「南無妙法蓮華経」です。 周知のごとく、世間の多くはこれを受け入れませんでした。さらにご両親も「父母手をすり(擦)てせい(制)せしかども」と、当初はその主義主張に賛同できなかったことがうかがえます。 |