いつそば「我聞の章」 |第26話「菩薩の資格」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

やさしい法華経物語

ウッキ〜くん

妙ちゃん

グリトラクータ童話

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 尊きお師匠さまの眉間(みけん)には、右回りに渦を巻いた白髪「白毫(びゃくごう)」がある。

 ある時、そこから光が放たれ、東の虚空にたくさんの仏さまの世界が浮かび上がった。この光はお師匠さまの大いなる智恵と慈悲を象徴し、東の方角は過去を表す。映し出されたそれら情景は、お師匠さまが遥か遠い過去より、種々のお名前の仏さまとして人々を導いておられるお姿だ。

 その中の一つに浄光荘厳(じょうこうしょうごん)という国があり、浄華宿王智如来(じょうけしゅくおうちにょらい)という仏さまが、大勢の菩薩たちに囲まれて説法をしておられた。そして、聴衆の中に妙音という名の菩薩さまがおいでになり、永きにわたる修行により、十六種類もの安定した心をお持ちだった。一言で言うなら、法華経の教えの根本を、十六の形で体得していたということになる。

 さて、妙音菩薩さまは、浄華宿王智如来の導きによってその境地を体得したと考えるのが普通だ。しかし、どの仏さまもみな尊きお師匠さま、つまり久遠の寿命を保たれてるお釈迦さまの分身に他ならない。

 私の名は阿難(あなん)。今日もお釈迦さまの織りなす光と風の世界を旅している。いま私は、妙音菩薩さまをはじめとする大勢の菩薩の姿を見て「善因善果(ぜんいんぜんが)」「悪因悪果(あくいんあっか)」という言葉を思い出す。仏教では因果の道理が説かれ、一般的には菩薩行という「因」によって成仏という「果」に至るとされる。

 現代でも、仏教の修行といえば読経・写経・水行などを思いつく人が多いだろうが、これらは修行の中でも自らの精神を整える「自行(じぎょう)」と言える。しかし、菩薩行の修行内容は自行に留まらず、尊い教えを人にお伝えする「化他行(けたぎょう)」が欠かせない。

 要するに菩薩行とは、この世において常にお釈迦さまと共にあることを自ら臆念(おくねん)し、安穏な境地に至ると共に、まわりの人たちにも、お釈迦さまの慈悲と導きに気づいていただけるよう働きかけるという修行なのだ。

 時空を越えて尊きお師匠さまの元に来られた妙音菩薩は、人々を導くため帝釈天(たいしゃくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・長者・居士(こじ)・宰官(さいかん)・比丘(びく)・比丘尼(びくに)・婦女等々、三十四種に姿を変えて法華経の説法をされるという。つまりは、ありとあらゆる姿で、いつでも・どこでも・どんな境遇にあっても、最高の教え「法華経」を広めようと誓われているのだ。

 長い時間お経を読んだ、何巻も写経をした、毎日水をかぶったり、険しい山道を登ってお堂にお参りをした……。厳しいことを言うようだが、これだけではお師匠さまのおっしゃる菩薩行とは異なる。自他共に導き導かれる関係であるからこそ、自然と互いに合掌し礼拝できる。そんな社会が実現できるよう、皆さん一人一人がお師匠さまのお言葉をお伝えいただきたいのだ。

妙法蓮華経「妙音菩薩品第二十四」より/つづく)

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