開目の章 |第9回「師弟の想い」 by Taiko

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 文永八年の法難(龍口・佐渡法難)では、大聖人お一人に止(とど)まらず、大勢のお弟子やご信者にも幽閉(ゆうへい)・所領没収・追放といった沙汰(さた)が下りました。この時、以前お話しした六老僧(日蓮聖人の高弟)の一人・日朗(にちろう)上人が、他のお弟子やご信者と共に幽閉されたのが、現在鎌倉の長谷「光則寺(こうそくじ)」に残る土牢(つちろう)です。

 伝説によると、牢番の宿屋光則(やどやみつのり)が橘(たちばな=ミカンの原種)を差し入れたところ、日朗上人はそれを食べようとせず、ただただ嗚咽(おえつ)するばかり。光則が不審に思い訳を尋ねると、日朗上人は涙を流してこうお答えになったそうです。

「橘はお師匠さまのお好きな果物。これを見ているとお師匠さまの声が聞こえてくるのです。お姿が浮かんでくるのです。私の身はどうなろうとも、ただただお師匠さまの身が案じられて仕方が無いのです……」

 「日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜の寒きに付ても牢のうちのありさま思やられていた痛くこそ候へ」と、我が身が危険にさらされているのにもかかわらず、土牢の弟子を案じて手紙をしたためられる師匠。そして弟子もまた、我が身はさておき師匠の身を案じる……。

 この師匠にしてこの弟子有り。この弟子にしてこの師匠有り。固い師弟の絆(きづな)を目の当たりに見て心打たれた光則は、幽閉された日朗上人等に便宜(べんぎ)を図るようになり、ついには日朗上人に帰依(きえ)し日蓮聖人の門弟に連なりました。さらには私邸を寺に、その名を光則寺としたのです。

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