いつそば「我聞の章」 |第9話「遥かなる縁」 by Shougyo
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 思いこんだら、試練の道を行くが男のど根性……。

 三十数年前、一世を風靡(ふうび)したスポーツ根性漫画『巨人の星』のアニメ主題歌は、あまりにも有名だろう。さらに、この「根性」という言葉、私にとってはもう三千年も前から耳慣れた言葉だ。

 私の名は阿難(あなん)。お釈迦さまがおっしゃった根性とは、心の持つ能力のことだった。それは「心が心を受け取る能力」または「心を通じ合わせる能力」と言えるかもしれない。

 はたして私たち弟子や信徒の心の能力は、尊きお師匠さまのお心を受け取ることができるのか、心を通じ合わせることが可能なのか。

 お師匠さまが法華経をお説きになる前までは、そのお心を受け取ることができるのは、菩薩(ぼさつ)の悟りを得た者に限られていた。一方、肉体を持ち、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)という悟りを得てしまった者、例えば私のような者は、お師匠さまと心が通じ合うなんて絶対にあり得ないとされていた。つまり私たちの心には、お師匠さまのお心を受け取る能力=根性が備わっていないと考えられていたのだ。

 ところがお師匠さまは、法華経の第二章から第六章までをお説きになる中で「すべての生きとし生ける者に、仏の心を受け取る能力がある。これは、皆が仏になる可能性を持っていることを意味するのだ」とお説き下さった。そう、これこそ「仏性普遍(ぶっしょうふへん)」と表現される教えで、要は「お釈迦さまのお心と私たちの心は通い合っている」ということである。

 法華経をお説き下さるまで、お師匠さまのお心と私たちの心との間には隔(へだ)たりがあった。しかし、法華経にいたって「根性が通い合う=融通(ゆうづう)する」関係になれた。法華経が、他のどの教えよりも優れている所以(ゆえん)だ。しかも「相対的」に比較して優れているのではなく、対立を越えて「絶対的」に……。

 法華経の第七章では、根性に加え「縁(えん)」においても、他の教えに対し絶対的な教えであることを、お師匠さまはお話し下さった。

「私は釈迦族(しゃかぞく)の王子としてこの世に生を受け、出家して悟りを開くことで、多くの人々に教えを説いてきたように見えるし、実際そう思われているだろう。しかし私は、この国に王子として生まれるより遙か遠い過去世より、すでに法華経を説き続けている。いま私が教え導いているすべての生きとし生ける者は、その時以来の縁(えにし)によって幾度となく出会い、いつの世でも私の教えを受け続けて来たのだ」

 お師匠さまのお心は私たち皆の心と融通し、私たちもお師匠さまと同じ心をになれる。法華経の第二章ではそのことを純粋な理論として、第三章から第六章ではたとえ話を用いて説いて下さった。

 そしてこの第七章では、私たちとお師匠さまとの、遙か昔からの深い縁を明らかにされたのだ。

妙法蓮華経「化城喩品第七」より/つづく)

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