いつそば「我聞の章」 |第25話「教えの中に生きる」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

やさしい法華経物語

ウッキ〜くん

妙ちゃん

グリトラクータ童話

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 男女の愛欲の世界には、プロポーズなるものがある。

「あなたは僕の人生にとって無くてはならない人です」
「僕の人生を賭けてあなたを幸福にしたいと思っています」

 女性からすれば、上の二つの言葉の内どちらがより嬉しいものだろうか。私の名は阿難(あなん)。今日もお釈迦さまの織りなす光と風の世界を旅している。

 さて、これらプロポーズの言葉と同様、信仰の在り方にも二つのパターンがあるように思う。尊きお師匠さまがお説き下さった最高の教え『法華経』と、私たちの人生について考える時、プロポーズの言葉の一つ目は「自分が生きていくための教えとして法華経を読む」立場であり、二つ目は「身と心で法華経を読むために生きる」立場と言えるだろう。

 法華経の本論が一応の結びを迎えた後、続いてお師匠さまは法華経を修行する姿、すなわち広める姿を個別の事例を挙げてお話された。
 ある時お師匠さまが法華経をお説きになっておられると、宿王華菩薩(しゅくおうけぼさつ)という方が「お師匠さま、薬王菩薩さまはどのような因縁があって娑婆世界に遊んでおられるのでしょうか?」とお尋ねになった。

 ここでいう「遊ぶ」とは、安楽で自由自在な境地にいて、衆生を教化されていることを指す。しかし、この娑婆世界は「忍土(にんど)」と訳され、耐え忍ばなければ生きていけない醜い生存競争の世界。にもかかわらず、薬王菩薩さまは遊んでおられる。不思議といえば不思議なことだ。

 そこでお師匠さまは、薬王菩薩さまの「本事(ほんじ)」についてお話になった。お師匠さまの過去世でのご修行の様子を本生(ほんしょう)といい、それに対し菩薩さまについては本事という。

 お師匠さまは語られた。

「遠い遠い昔、日月浄明徳如来(にちがつじょうみょうとくにょらい)という仏さまが法華経を説いておられた。その弟子に一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)という名の菩薩がいて、教えを聞いて厳しい修行を実践し、ついに『現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい)』という境地を得たのだ」

 この「現一切色身三昧」という境地とは、冒頭に挙げた「生きていくために法華経が必要」と思う境地ではなく、「身と心で法華経を読むために生きてゆく」という境地だ。

 そして、お師匠さまはこう続けられた。

「一切衆生喜見菩薩は、仏と法華経によってこの境地へ至ったことに計り知れない感謝の思いを抱き、自らの身を燃やして灯明とし供養を捧げた。この菩薩こそが私の前にいる今の薬王菩薩である」

 我が身を燃やして灯明とし、法華経に供養を捧げたということは、「生きるための法華経」ではなく「法華経のために生きる」ということ。自己のすべてを教えの中に投げ入れ、教えの中に生きている姿なのだ。

妙法蓮華経「薬王菩薩本事品第二十三」より/つづく)

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