いつそば「我聞の章」 |第3話「壮大な開会式」 by Shougyo
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仏さまのこばなし

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 私の名は阿難(あなん)。私の心は、いつもあの時と同じように、尊きお師匠さまの心の世界を旅している。

 そして今、お師匠さまのいらっしゃった時代からおよそ三千年の時空を越えて、西暦2002年のアメリカ・ソルトレークシティにいる。つい数日前に幕を閉じた「第19回オリンピック冬季競技大会」。その開会式の、なんと盛大であったことか。まさしく全人類の平和とスポーツの祭典の幕開けにふさわしい。

 今までに行われた、数々のオリンピック開会式を見る時、私はいつも思い出すことがある。あの、全宇宙と宇宙の外側までも統一する「絶対の真理」が説き表されようとする直前の、壮大な開会式を……。

 私のお師匠さまが法華経をお説きになった場所、インドの「霊鷲山(りょうじゅせん)」に、あなたは行ったことがあるだろうか?もしまだなら、一度でもいったことのある人に、その広さを尋ねてみてほしい。そうして『法華経』の第一章を読んだ時、あなたが「ある疑問」を持ったとしても、それはごく自然なことだろう。

 霊鷲山の広さを知ったなら、お師匠さまのご説法を聞きに集まった、そこに記(しる)される人々や神々の数は荒唐無稽(こうとうむけい)としかいいようがない。一万二千人の僧侶、八万人の菩薩、百千の龍神、百千の天女、そして六千人の仲間を連れた尼僧たち。どれだけ考えても、つじつまがあわない。

 でも、よく考えてみてほしい。目に見えるものや物理的に存在が証明できるもの、数式に表せるものだけが「この世に存在しているもの」なのだろうか?私たちを導き守ってくれる存在も、本当にそれだけなのだろうか?現時点での見識・常識が、過去に比べてより正確で先進的であるという考え方が、現代に「ひずみ」を生み出してはいないだろうか?

 私が立っていたその舞台は、まさに無限の時空を「法」によって統一するための開会式であり、それだけの数の僧侶・菩薩・守護神たちが集まっているのは当然のことだった。肉体を持たない心の世界の者たち、大胆な言い方をすれば「霊界の住人」までもが一同に会した様子が、法華経の第一章に記(しる)された霊鷲山の風景である。

 目に見える者と見えない者、肉体を持つ者と持たない者……。すべての聴衆がここに集まった時、大いなる真理が説かれる序曲は、いよいよクライマックスを迎えた。天からは花の雨が降り注ぎ、地面は快く振動し、お釈迦さまの眉間から放たれた光は、今までにこの世に現れた、すべての仏さまの世界を照らし出した。

 しかし、その場にいた者たちは、当然のことながら大きな疑問をもっていた。この開会式が何を意味するものなのか、ほとんどの者がまったく知らなかったのだ。その時、一同を慈しむ気持ちから、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が智恵の明らかな文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に問いかけられた。

「この壮大な序曲は、いったい何を意味するのでしょうか?」

 すると文殊菩薩は、静かにこう答えられた。

「尊きお師匠さまは、今まさに全宇宙、いや、その外側までも統一する、絶対の真理を説こうとしておられるのです」

妙法蓮華経「序品第一」より/つづく)

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