UFO通信 |宗教は科学と対立するか?(1) by Ufo

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 宗教と科学が対立している、あるいは対立した歴史がある、とはよく言われることである。

 愚僧が出家した(1981年)頃のことだが、現実にそのことを持ち出して議論を仕掛けてきた若者達がいた。彼らとは出家以前から付き合いがあったので、日頃はできるだけ論理的に物事を処理しようとしている愚僧の姿勢からみて、愚僧の出家が奇異に感じられたのだろう。

 論点は主に二つであった。一つは真理を体現している「自然科学」と対立するのであるから、宗教は「不合理」あるいは「非合理」である、というものであり、なぜそのような非合理な世界に身を投じようというのか、という点。もう一つは「宗教が宗教の名において戦争をし、数々の犯罪を犯してきたことについてどう責任を取るのか」というものであった。

 彼らとの何回もの議論を通じて感じたことの一つは、いかに僧侶が若者達に仏教を知らせる努力をしてこなかったかということだ。若者達が僧侶と話し合う機会が極端に少ないことはよく知られているのだが、それにしても彼らの仏教についての知識の少なさには驚かされたものだ。

 しかし、これは僧侶と若者だけに責任があるのではない。戦後の文化人が形成した教育界・出版界・思想界などなどの組織の問題が大きいように思われる。これは問題が大きすぎて愚僧にはとても詳述(しょうじゅつ)する余裕はない。いつかできる時が来ると信じてはいるのだが……。

 さて本題に入ろう。最初の問題点について少し整理しておく必要があると思われるので、そこから始める。

 「宗教」という言葉で、何を真っ先に思い浮かべるか、人様々であることは当然として、お祖父さんの葬式を連想する人、その時に立ち現れた僧侶の異様ないでたちに泣き出したことを思い出す人、無駄なことと思いつつもご先祖の年回忌に出席する人、でもまあ親戚一同が集まる機会も少なくなった現在ではそれだけでも意味のあることかも……と思い直す人、本当に様々であろう。

 だが、「宗教と科学の対立」というテーマになると、範囲はぐっと狭(せば)められるのではなかろうか?御先祖の年回忌などという個人的な経験はそこから省かれ、大方の人にとってはガリレオ・ガリレイの有名な話が浮かんでくるだろう。

 当時の教会の「天動説」と対立して「地動説」を唱えていたのはガリレオ・ガリレイだけでなく、ジョルダーノ・ブルーノもコペルニクスの地動説を支持し、宇宙が有限か無限かの問題でも教会と対立、異端の判決後も自説を曲げなかったため、火刑に処せられている。蛇足ながら、彼はドミニコ会の修道士であり、司祭に任じられた神学博士であり、異端判決時、審問官に対し「私よりも、この判決を申し渡したあなた達の方が恐怖に震えているのです」と言ったという伝説があることを付け加えておこう。

 キリスト教会の言い分を一応は認めて処刑を免れ、「それでも地球は回っている」と呟(つぶや)いたガリレオ・ガリレイと、自説を曲げずに火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノと、さてどちらが……。彼らの主張の後世への伝わり方を見れば、潔(いさぎよ)いだけでは弱いのかもしれない、一旦は卑怯者、或は臆病者に見えても、しつこく生きて言い続ける方が善いのかも……。

 ガリレオ・ガリレイのことは、時間も空間も遠く離れた日本の中学生でも知っているが、ジョルダーノ・ブルーノの方はどうであろうか?もちろん、愚僧と議論した若者達も、全員が知っていたわけではなく、知っていたのは少数派であった。

 しかし、ここでは遠い十六世紀ヨーロッパのことではなく、極近い二十数年前の日本の話を……。

 彼らとの議論はなかなか手間も時間もかかるものであった。というのは、基本的な知識の質・量共に、上に書いた主な二つの論点を論ずるには不足気味であり、それらを提示しながらだったからだ。当然のことに、何日も費やしての作業になった。彼等も実に辛抱強く付き合ってくれたものだ、と感心している。

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