UFO通信 |嘘つき役人・嘘つき教師に嘘つき放送局(1) by Ufo

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 日本人は、いつからこんなに嘘つきになってしまったのだろう。しかも、その嘘が暴かれた場合に恬(てん)として恥じることも無く、嘘に嘘を重ねようとしている。昔も嘘をつく人は多かったのだろうか。

 嘘をついたり、隠れて良くないことをするのは、いつでもどこでもあることなのだが、それが露(あらわ)れた時の諸外国の学者や政治家達の対応のしかたを見ていると、日本の学者や政治家達のように、いつまでもぐずぐずと言い訳にもならないような言い訳をしてはいないように思われる。潔く罪を認め、汚名を雪(そそ)ぐべく次の活動に移っていくようだ。

 江戸末期から明治にかけて、ヨーロッパやアメリカに滞在していた若い武士達の振る舞いが、現地で称賛の的になっていたことを思うと、どこでどう変わってしまったのかと不思議ではある。

 教師や学者といえば、真実や真理に最高の価値を置く人たちだと思っていたら、どうもそうではないらしいし、役人にしても、彼らの頭の中では「公僕」であるのはどうやら国民の方であるらしい。

 教師や学者が真実なり真理なりに最高の価値を置かないとしたら、一体彼らは何を目標として、何を理念として生きているのだろう。やはり巷間(こうかん)伝えられるように、校内やら学内・教育界という彼らが属する狭い世界での出世を目指したり、いわゆる豊かな生活とやらに心を奪われているのだろうか。そのために嘘をついているのだとしたら、彼らに人を教育する資格などない。

 「公僕」という考え方はもともと日本にはなかったものであるから、役人達に「公僕」であることを要求するのは到底無理な注文というべきなのだろう。そんなことは常識だと言われれば、「誠にごもっとも」と応えざるを得ないところが寂しいと言えば寂しい。

 息子がどこそこの省庁の役人になったといえば、親の鼻は高々と聳(そび)え立ち、親戚縁者に至るまで自慢しまくるのだから、周りの人間が役人を「公僕」にさせないという構図もあるのだろう。

 役所と関係をもたざるを得ない業者が、仕事や許認可欲しさに役人の前で卑屈になるということもよく聞く話で、そんなことが常態となれば、気を付けていてもつい増長してしまうのが人の子。思えば可哀想なのは役人だ、ということになるのだろうか。いやいや、こんな書き方をすれば反語だとは思わず、同情されてその上認められた、と思うぐらいが関の山。実に思い上がった輩(やから)の扱いは難しいものである。

 「嘘も方便」とは、恐らく僧侶を揶揄(やゆ)する言葉から一般化したものであろうが、確かに「嘘の効用」というものが無いわけではない。けれども、「効用」であるのはごく限られた場面でしかなく、長い目で見ればやはり「正直」の方が「効用」は大きいようだ。どうも嘘を付くことが、良心の痛みをそれ程感じさせることがなくなってしまって、むしろ「手柄」であり誉められて当然ということになっているらしく、まことに宜しくない風潮ではある。それも、思わず拍手したくなるような上手なものならともかく、全く洗練とは無縁、お話にならない。胸が悪くなる思いをしているのは、愚僧一人ではないだろう。(つづく)

〈H8.7/25初出〉

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