UFO通信 |仏になったらどうなるの?(3) by Ufo

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 こう考えて来ると、「教義を保持し伝える僧」という点で早くも雲行きは怪しくなって来る。教義を伝えないわ、ひょっとしたら保持してないかも知れぬわ、これで仏教僧とはとても言えない。

 かつて海外旅行が盛んになりかけた頃、現地で何を信仰しているかと問われ「仏教だ」と答えたところ、続けて仏教の内容について質門されて返答に窮した体験談が、新聞やマスコミでよく流れたことがある。注意として「よく準備しておくように」というのが付け加わっていたように記憶している。

 しかしよく考えてみると、これほど虚しい忠告もまたと無いように思える。渡航を計画したとして、それまでほぼ無関心であった宗旨を勉強するとは思えない。現地でどんな風景を見ることができるのか、どこで何を買ったらいいのか、どんな美味しいものが食べられるのか、どんな遊びができるのか、関心はもっぱらそちら方面に向いているのであって、宗教談議をするための海外旅行などは皆無であったろう。

 それより、よしんば勉強する気になったとしても、もうすでに不可能に近い状態だったのではなかろうか。葬式仏教・法事仏教と言われて久しいのである。

 残る救いは実践面であるが、これまたはなはだ心もとない。「肉食妻帯飲酒喫煙けっこう」「出家でないなら出家でないやり方」「根拠を明確に」というのが在家の人達の思いであろう。戒律も変化して来たわけで、今変化して悪いというのでもないだろうから、出来ないことではない。仏典なり祖師の遺文なり、根拠はあろう。それより問題は「感情をコントロールしなさい」と言っておきながら、自身はコントロールしないことにある。

 大乗仏教、特に密教の影響を受けた宗派は「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」を言うが、欲望のままに生きること、あるいは感情をコントロール出来ないままに生きることが「悟り」を開いた状態だとはとても思えない。「仏になりなさい」「悟りを開きなさい」とは言うが、「好き勝手に生きなさい」とは言わない。にもかかわらず、である。

 ここまで来ると、「仏になったらどうなるのか」「悟りを開くとはどうすることなのか」という疑問が生ずる。この疑問に、言葉を含めた実践としてどう体現していくのか。おそらくこのあたりが、旧仏教教団に対する批判の最要点であろうと思われる。

 生きている間に誰もが成れるはずの「仏」に、釈尊以外は誰も成った者がいない。とすれば、釈尊以外は誰も仏に成れないのではないか。まさか「死んだ者が子孫に悪影響を及ぼさなくなること」が成仏だなどとは言えまい。言えば「仏教」では無くなってしまい、単なる祖先崇拝に堕してしまうからだ。(つづく)

〈H8.1/1初出〉

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