UFO通信 |仏になったらどうなるの?(3) by Ufo

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 前回と前々回に書いたことを考え合わせ、いわゆる旧仏教が何を求められているかについて、いま少し書いてみたい。

 平成七年中に限らず、バブル期にはそれほど気にも留めなかったことが、色々な形で表面化し問題にされたが、その中で「旧仏教界」の怠慢が原因であるとされる門題もいくつかあった。特に新々宗教、あるいはカルト教団と呼ばれるような宗教団体が勢力を伸ばし、世が宗教時代に入ったとされる頃からは、その傾向が強くなったように思われる。

 そうした声が、単に「旧仏教界が税制上やその他の特権の上に胡座(あぐら)をかいているから」という理由で非難しているものばかりではないところが、一面で光明であり、また他面ではより恐しいところでもある。教義を明確にし、つまりは「誰にもわかるような形で示し、実践すれば良い」と考えれば光明であろうし、それらの内どちらか一方でも出来ないとなれば、いつかは誰からも相手にされなくなるだろう。

 話がとんでもないところへ飛ぶようだが、インドで仏教が滅びたのはどの時点かについては諸説あろうが、一つには「仏教僧侶集団が無くなった時」という考え方がある。その根拠は「教義を保持し、伝える者がいなくなったから」ということだそうであるが、だからといって、インドのどこへ行っても釈尊の名が忘れ去られたというわけではなく、ヒンズー教の中では聖者の一人として語り継がれているらしい。

 さてどちらを採るのか?後者の状態をもって「インドにまだ仏教が存在する」と言おうとすれば、極く少数ではあるが、自分達は仏教徒であると称する人達、つまりは「ヒンズー教の主神達より上位に釈尊を置く人達のことをどう考えるのか」という問題に突きあたる。ここは一般的に言われるように「インドは仏教国でなく、ヒンズー教の国である」と考える方が真実に近い。

 教義を保持し伝える僧と、彼らを支える信徒達がいる状態といえば、現今日本の旧仏教集団もそれに当てはまりそうであるが、よくよく考えてみよう。愚僧はこれまで、この小文において「教義はあるが、伝え方が下手なのだ」という視点で論じて来たが、この論調が果たして当を得たものかどうかよく分からなくなって来たのである。

 「伝えるべき内容があっても上手く伝わらない」と伝える側は感じているのかもしれないが、そんなのは単に伝える側の思い上がりにしか過ぎないのであって、少くとも伝えられる側からすれば「何も伝わって来なければ伝える内容も無い」ということになるのではなかろうか。とすれば、巷間(こうかん)よく言われるように「仏教をわかるように教えて欲しい」というのは、単なる世辞であるか、何か内容があると思わせるのが上手いだけなのかもしれない。

 「今日は有難いお話を聞かせて頂きまして……」とは時々言われるが、本当に有難いと思っているのかどうか分かりはしない。というより、その後も聞きたがるかどうかを考えると、言葉ほどには有難がっていないと判定する方が無難と言えば無難。少なくとも増上慢(ぞうじょうまん)に陥らなくて済む。

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