UFO通信 |仏になったらどうなるの?(2) by Ufo

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 さて、その日蓮大聖人の教えを伝えるのに急なあまり、何かぎこちなくなってしまっているのが、他方の極であると思う。そもそも仏教の教義体系は非常に複雑であり、当然のことながら日蓮大聖人のみ教えの内容も非常に高度深遠なものである。従って、時間の制約もあってそれらを的確に伝えるのはなかなかに困難であることは、愚僧も日頃の体験から良く理解できる。しかし、だからといって等閑視(とうかんし)してよい門題ではない。

 こちらの極で気になるのは、抽象談議になってしまいがちなこと、我田引水(がでんいんすい)的解釈が多いことの二点である。

 もともと「法」の内「法則」の方、すなわち釈尊がお悟りになったという法は、様々な事物現象の根底にある共通性を取り出したものであるから、抽象的であるのは止むを得ない。しかし、それらをどう具体的な事物現象に結びつけて説明し、納得させるのかが、我々僧侶の役割であろう。檀信徒・未信徒を問わず、彼らの要請はそこにある。

 具体的な事物現象といっても、何も日常生活の細々としたものばかりではない。いわゆる「存在の不安」なるものも、解消せねばならない時もある。というより、恐らくはこれが解消できれば、その周りに付きまとっている門題も自然に雲散(うんさん)してしまうものと思われる。

 人々が抱いている根源的な疑問に答える時、彼らがいかに具体的・現実的な答えとして受け取るかが問題なのである。人々が各々の疑問を表現し切れないでいるが故に、日常生活の細々とした事物に不満やあせりを感じている時、それらをどのように整理し、具体化し、さらに「安心」を与えるか。もちろん、解答は仏典・御遺文の中にある。

 だが、その中には元来抽象的な言葉や表現もあれば、昔は具体的・現実的に聞くことができた言葉や表現も、時代の変化と共に抽象的にしか響かなくなったものもあるだろう。これらを整理することさえ難しいことではある。先師の遺産に習熟すべく研鑚し、常々檀信徒や未信徒との対話と論議が必要であろうと思われる。

 次に我田引水的解釈のことだが、これは要するに、信者にしか通じない解釈をもって事足れりとするような解釈のことを言っているのである。これが問題である由縁は、「御説御尤(おんせつごもっとも)」的サークルの中だけで暮らしていると、自分が次第に我田引水に陥っていることに気が付かないところにある。

 法話なるものは大体において一方通行であり、御説御尤の典型の一つであるから、檀信徒だけの場合なら問題は小さいかも知れない。しかし未信徒がいる場合、その人にとっては甚(はなは)だ欲求不満の残る仕儀(しぎ)であろうし、場合によってはかえって悪宣伝される恐れさえある。まさかこれを変毒為薬(へんどくいやく)とは申せまい。

 麻原彰晃は「魚鳥虫獣は悪をなさないから殺してはいけないが、人間は悪をなすから殺してもかまわぬ。なるだけ悪業をなさぬうちに殺してやるのもかえって功徳(くどく)だ」と、「ポア」という言葉を使って信者達を納得させた。例は極端に過ぎたが、我々の内にも程度は軽いとはいえ等質のものはある。

 こうした事態を招かぬため、我田引水に陥らぬためには、常日頃より未信徒と議論したり、檀信徒の本音をひき出す努力が必要であろうと思われる。(つづく)

〈H7.11/20初出〉

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