UFO通信 |大震災(1) by Ufo

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 愚僧は、ここで「自分の意見が欧米人に近い」とい威張(いば)りたいわけでもなく、法律や行政について論じたいわけでもない。それらについて議論するなら、もっと適した人が大勢おられるのだから、その人達にまかせておけばよい。もっと手際良くやって下さるだろう。愚僧が言いたいのは、「死」あるいは「死者」に対する考え方や、態度・姿勢の違いを言いたいのである。

 どうやら日本人には、もともと死や死者を絶対視する傾向があり、それがこういうところに出て来たのではないか、ということである。これについて愚僧などは、日本人の強迫観念になっているのではないかとさえ、時々思ってしまうほどである。梅原猛が、「これで何もかも説明し切れる」と思ったのも無理からぬことなのかも知れない。身内に死者がいる人達の心を慰めるためには、何をさしおいても、ということなのだろう。

 さて、こうした死者に対する態度の違いがなぜ起きるのだろうか。原因は様々であろうが、愚僧は宗教の違いをその一つに挙げたい。

 日本人のキリスト教徒に、なぜキリスト教徒であるのか聞いてみると、ほぼ一様に「仏教が死者しか相手にしないで、生きる上での問題に答えてくれないからだ」という答えが返って来る。それはそうだろう。日頃、僧侶と接する機会といえば葬式か法事、寺にいくにしても彼岸か盆、主な目的が死者の慰霊であれば、葬式仏教・法事仏教と言われるのも無理はない。よしんばそれらの機会に法話を聴いたとしても、うっとうしい教訓や道徳話では足が遠のくのも無理はない。

 何より僧侶は、檀信徒であれ未信徒であれ、彼らの話したいことをじっくり聴くという態勢にない。これでは、「死後の問題より、今生きていることの問題の方が大きいんだ」という人達に相手にされないのは当然だろう。その点、キリスト教会は、最近欧米でも力を失いつつあるとはいえ、これまで死者の慰霊だけをしているわけではなかったので、前に書いたような欧米人の反応となって現われたのだろう。

 余談になるが、先日テレビを見ていたら「能」を採りあげていた。そしてインタビュアーが、生霊(いきりょう)に対し僧侶が成仏を祈ることについて「生きている人に対して成仏を祈るのも変な話ですね」と問い、それに対し能役者も「私も不思議に思っているのですが、まだすっきりした解答が見つからないのです」と答えていた。インタビュアーの感想はまことにもっともであり、一般の理解がこの程度であるのにもうなずける。

 が、それにしても、分からないのは能役者の言葉である。彼の身近に、質問をぶつける僧侶がいないか、あるいは彼の方で「どうせ答えてくれないだろう」と質問しなかったのか、はたまた質問したけれども満足できるような答えが返って来なかったのか。いずれにしても、彼の疑問を解決できるだけの僧侶が、恐らくはかなり教育程度の高い人達との交際も多いであろう彼の周囲にいなかったことだけは確実である。それだけでもかなり残念な、なおかつ情ないことであるのに、テレビに出てしゃべっているのだから、何をか言わんやという状態である。

 成仏という、仏教にとっては最重要の問題でさえ、一般にはこの程度の理解しか得られていないことについて、どう考え、どう行動すれば良いのだろうか。はなはだ考えさせられた次第である。(つづく)

〈H7.3/25初出〉

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