UFO通信 |UFOが飛ぶ(2) by Ufo

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 さて、本題に戻ることにしよう。こうした人間の感覚に頼っているだけでは、他人を納得させられないということで、写真やビデオという誰もが納得するはずの証拠や、複数の人達が見たという証言を提出するわけであるが、それらもそれほど信用できるものでないことは前号に書いた。

 「人は見たいものしか見ない」というのは、色々な場面で起こることだ。最近は諸外国に関する情報も格段に増えたので「よほどのことがない限り、人間というものはどこへ行ってもそう変らないな」という感想を持つことも増えた。拙僧(せっそう)が“卑少年”の頃だと、例えば「アメリカは文明が発達していて、国民はみな合理的な考え方の持主で……」などと旅行記に書く人がいたりしたものだ。だがその一方で、十八世紀だか十九世紀だかの生活をそのまま町ぐるみで続けている人達がいたり、かたや前号にも書いたアダムスキーなどは新興宗教の教祖みたいになっていたりで、アメリカ人がみな合理主義者であるなどとはとんでもないことだった。

 さて似たような現象で、もっと進んで「見たいものは見える」という状態もある。例えばカトリック国ではマリア様が見えたり、仏教国であれば観音様が見えたりすることがある。見たいものの中でも、いま例に挙げたような「超越的・神秘的な存在に会いたい」という希求が強い人達は、これまたいつでもどこでもいるもので、「現代のような機械文明の時代では、それがUFOとなって見えるのだ」と説明したのがC・G・ユングであった。

 これに対してUFO実在論者達がしたことは、考古学で取扱うような古代遺跡や遺物・神話・伝説等の中から、果ては聖書まで引用しての証拠捜しであった。彼らは、現代の技術をもってしても建設不可能と考えられるような遺跡や、古代人の遺した絵画や彫像の中から、彼等自身が宇宙人としか見えないもの、あるいはUFOや宇宙人の到来を表わしていると読みとれるものを、神話や伝説の中から丹念に捜し出してきた。そこには、論文と呼ぶにはお粗末な書物もたくさんある。お読みになられた方もおられよう。

 意識的にしろ無意識的にしろ、結論が先に決っていて、それに都合がいい証拠を捜したり解釈したりするのであるから、一見正しく結論が導かれているように思える。しかし原典に当って見ると、他の解釈も成り立ったり、他の解釈の方が正しいと思えるものが多い。この手のもので思い出されるのは、ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』という書物である。アメリカで大変なスキャンダルになった有名な書物なので、ご存知の方も多いと思うから詳しい紹介は控えさせていただくが、つくづく人間の知性や行動の不思議さ、不確かさを思い知らされる一書であった。現今のUFOばやりも、ひょっとしたらこの手のものかもしれない。(つづく)

〈H5.11/25初出〉

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