UFO通信 |理性が危ない(1) by Ufo

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 この頃の世相を観ていると、ホラー映画の隆勢、UFOの目撃とか呼出し(愚僧がウケているのではありません、念のため!)、占いブーム、何やら怪し気な新宗教、新々宗教、霊能者や超能力者のモテモテぶり、チャネリング等々、いわゆる合理主義と正反対の立場にあるようなもの、自然科学では説明できない、あるいは説明しにくいものが大流行りである。もちろん自然科学的に説明しようとする動きも、そちこちで見受けられはするが……。

 これは、言わば「反理性」重視の表われだと思われる。以前の「フィーリング」という言葉、現在では「感性」という言葉の多用が、その事を如実(にょじつ)に物語っているように思う。

 自然科学的に説明しようとする試みについては、色々に考えることが出来る。思想の潮流にも慣性がある、とも言えるし、先行する人達が遅れている人達に、親切にも解らせて下さるためにしていなさることだとも、単に仲間を増す便法だ、とも考えることができる。ただ一個人に限ってみても、自ら発見した新しい考え方に、なかなかなじめないことがあるのも事実であるから、慣性の問題も、あながち多人数の中での先行や後行の差によるものだけでもなさそうである。

 さて、ここに非常に重要な問題が潜(ひそ)んでいる。よく考えてみなくてもわかるはずのことであるが、世の中が科学技術万能・合理主義全盛と思われていた頃にも、つまり多くの世のリーダー達が、事を処するに当って理性的であることが、人類の幸福に至る唯一の道であるかのように説いていた頃にも、霊能者達や占師達は、桧(ひのき)舞台に登ることはなくとも、その系譜(けいふ)を守っていた。人々は、世のリーダー達も含めて全てと言ってよい程、そうした神秘的なこと、非合理的なことについて無関心ではおられなかった。日頃、自らを「理性的である」「合理的である」と主張する度合の強い人程、神秘的なことや非合理的なことを否定するに当って感情的なたかぶりをお見せになるのは、かえって関心の強さを表わすものと受け取ってよい。

 つまり「理性の時代」とか「感性の時代」とか言われても、人間は、また人間社会は、それ一辺倒にはおよそなれそうもない、ということである。とすれば、先に書いた「慣性」といい「先行・後行」といい、いずれも極く表面的なことであることがわかる。

 かつて、科学技術万能と言われた頃、合理主義こそ全てと言われた頃、大勢の人達がそれ一辺倒になれると錯覚し邁進したことが、どういう事態をひきおこしたか、またはひきおこしつつあるのか、改めて言うまでもないことである。一方で幸福になったと感じた人もいるが、他方で重い苦悩を負わなければならない人も多くなった。また幸福になったと感じた人も、真に深い喜びを味わったかどうか疑わしい。

 恐らくは、その反省として現今の風潮が起ってきたのだと思うが、もし思潮(しちょう)の慣性が真実なら、今度は情緒的な部分ばかり強調されて、行き過ぎになる可能がある。

 もう二十年以上も以前のことになるが、拙僧(せっそう)の友人で政治学者(当時はまだ卵)が、「理性重視の時代と情緒重視の時代が数十年で交替している」と言っていた。年数については見方や基準の置き方で種々であろうが、おおむね当っているように思う。或いは数十年というのは細かい波で、もっと大きなうねりが数百年単位で交替しているのかも知れない。

 とすれば、初めに書いたような流行は今後も続くものと思われるし、増々先鋭化・極端化することも考えられる。もしそうなら、公害等に替わる新しい苦悩が出て来るだけのことで、結局は同じ状態が続くだけのことである。

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