UFO通信 |偏差値社会改善策(1) by Ufo

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 いわゆる一元論(思想とか哲学とかはほとんどそうなる傾向がある、というのは多元論であれば論理的に弱点を持つことになりやすいから)で説明し得ることは、我々の生活のうち一部に過ぎない。ある論が説明し尽しているように言いなす人も大勢おられるようだが、我々の生活が矛盾に満ちたものである以上、論理が簡明であればあるほど、切捨てていることも多くなる。つまり理論に合わない事物を無視するか、歪曲(わいきょく)して解釈するかのどちらかになる。

 こんなことは、我々人類の営為のうち最も論理的である自然科学界では日常茶飯事で、科学裏面史の類を調べればすぐに納得されることで、というより驚きあきれる程である。つまりは我々が学校教育を中心として、いかに成功した例だけを知らされていたかを思い知らされる。とは言え科学界の美点は、全体として誤りを正すに潔かったことである。

 自然科学の問題はさて置くとして(というのは、現今の量子力学はそれまでの古典的な思考の枠組みを脱ぎ捨てているので……いつか書きます)、間違ってはいけないのは、お釈迦様は我々に辺見を捨てるようにとはおっしゃったが、「論理を捨てよ」とか「理性を働かせるな」とはおっしゃっていないことである。「四聖諦(ししょうたい)・十二因縁法」等の法門を見ても極めて論理的であり、殊に「十二因縁法」の「無明」を滅すべしとの教えは、他のどんな宗教家・哲学者・思想家より理性的・論理的であられたことを示すものではないだろうか。

 話がややこしくなって来た。我々凡夫が論理的であろうとすれば辺見に陥るし、といって論理を捨てるのはこれまたみ教えに反する。法華経には「中(ちゅう)」或は「円融(えんゆう)」という考え方が説かれていて、世の様々な矛盾を見事に解決して下さっているのだが、いかんせん、何しろ「唯仏與仏(ゆいぶつよぶつ=仏と仏との間においてのみ理解できる法)」の世界のこととて、我々凡夫が実践するにははなはだ難しい。

 例えば「A」か「B」かという論議になると、これは議論は白熱しても、両者の長所を合わせ持った「C」にしようということになり、目出たく決着を見ることも少くないが、「A」か「非A」(Aでない、A以外の全てを指す)という論議になると、まず決着がつかない。かたわらにいる者も、どちらかに組するということになり易い。これが論議だけで終わっているのならともかく、「A」か「B」か、「A」か「非A」かで殺し合うことがあるのも、また我々凡夫の現実の姿である。

 それは困る、いかに立派な説が唱えられていようとも、いかに世の矛盾が解決されそうであろうとも、実践できないのでは仕方がないではないか、と文句をつける方がおられるかも知れないが、そんなところでお釈迦様にぬかりのあろうはずもなく、実践法についてもちゃんとお示し下さっている。

 与えられた紙数が尽きかけています。、首尾一貫どころか、尾のないあり様になりましたが、続きは必ず……。(つづく)

H3.9/30初出〉

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