UFO通信 |偏差値社会改善策(1) by Ufo

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 前回お約束した通り、偏差値社会(以前の学歴社会)の弊害を除く方法について思いついたことを少し書いてみます。首尾一貫しない点がありましたら平に御容赦を……。

 現今“マルチ人間”なる言葉が流行っている。これは良い傾向だと思う。というのは、日本ではこの種の人は「二兎を追う者一兎を得ず」とか言われてなかなか評価されず、一つ事を一生やり通した人物だけが尊敬された時代があったからだ。社会全体として見た時にはそれでもよかったのかも知れないが、多方面に才能を示す人達にはやりにくい社会であったことは事実であり、彼らを充分評価できなかった分、損失・無駄もあったろうと思う。

 だからといって今度は一芸に秀でた人を評価しないとすれば、これまた問題である。要するにどちらか一方に偏った評価の仕方は良くない、様々な人を評価し得る態勢になければならないと思うのである。少々言いふるされた言い方かも知れないが、価値の多様化を図るということである。

 明治以後、維新政府の敷いた「富国強兵策」という路線に乗って価値の一元化が企てられたのは、御存知の通りである。当時の欧米列強と対等の立場に立つためには、必要な事だったのかも知れないが、問題は多様な価値基準を認めた上での一元化ではなかった点にある。

 多元的価値を認めた上での一元化、これは一見不可能事であるように思われるかも知れない。明治以後、特に戦後、我々にはむしろなじみの深い西欧の考え方に従えば(というより無意識のうちに従ってしまっている、というのが実情であろうが、これについては又いつか)、一元論と多元論とは相容れないものであるからだ。その事は、例えば観念論と実在論の両方を含む形而上学が、西欧では遂に誕生しなかった事を挙げるだけで充分だと思う。

 この宇宙の事物は、我々人間がそれを見ることで初めて存在する、という考え方を基本にすえる観念論は、仏教で言えば「一切空」の立場に近い。一方、事物は我々の感覚に捕えられるか否かに拘らず存在する、とする実在論は「一切有」の考え方に近い。古典ギリシャにおいてこれらの考え方が成立して以来、西洋人達はどちらか一方の考え方に従って思考を進め、行動するという大勢にあったのである。

 もちろん中には両者の融合を目指した者もいるとは思うが、主流にはなれなかったのである。(いや、ひょっとするとヘーゲルの弁証法は矛盾対立の止揚と言っているのだから、その辺りを目指したのかも知れない、どなたか御教え下さると有難いのですが……。参考書を紹介して下さるだけでも結構です)

 ところで、お釈迦様という方はまことに偉い方で(と拙僧ごときが申すも失敬になるとは思うが……)、その事についてもきちんとお教え下さっていて、我々に辺見を強く戒められておられる。

 つまり我々凡夫が、浅智恵でもって論理を追い、矛盾の無いようにしようとすると、必ず辺見に陥ることを先刻ご承知で、世の中そう簡単に割切れるものでないことをお教え下さっているのである。

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