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 陽と陰・善と悪・愛と性・精神と肉体・天と地・外向的と内向的・ネアカとネクラ・理論と実践・知識と知恵・理性(知性)と感情・聖と俗・ハレとケ・資本家と労働者・積極的と消極的・楽観的と悲観的・ホンネとタテマエ等々……。古今東西、物事を二つに分けて全宇宙やその一部を説明しようとする考え方がよくある。長い歴史を持つものもあれば、うたかたのごとく、現れたかと思うとすぐに忘れ去られるものもある。善と悪・知識と知恵などは前者の例であり、ネアカとネクラ・スキゾとナントカ(一方の名を忘れる程あっけない流行に終ってしまった)などは後者の例であろう。

 ところで、何故、飽きもせずこうした考え方が次々と世に出て来るのだろう。恐らくは、こうした説明の仕方(難しい言葉で言えば二元論と言うのだろうが、ここでは仮に二分法としておく)で、宇宙や人間界の成り立ちとか仕組を説明されると解ったような気分になりやすいからであろう。

 この二分法というのは、基本的には「あるもの」と「そうでないもの」の二つに物事を分けて整理してみようという考え方である。最初に言い出した者が、このことをどの程度意識していたのか知らないが、少なくとも受けとる側ではそうであり、なおかつ「あるもの」と「そうでないもの」との境がはっきりしている、つまり物事をどちらかにすっきり分類できるものと思い込みがちである。しかしながら、この分類の作業は意外に面倒臭い、いや殆ど不可能と言って良い。

 「善と悪」を考えてみても、定義どおりの善でもない、定義どおりの悪でもない事は、人生にはいくらもあるし、時と場合によっては同じことが善になったり悪になったりする例もある。よく言われるように「殺人」などという極端な例でも、戦争状態にある敵を殺すことは善であり、同じ時に味方を殺せば悪とされる。

 これが「知恵と知識」などになると更に境界線はぼやけてくる。「知識を多く貯えることは決して悪いことではないが、いくらたくさん知識があってもそれだけでは駄目で、物事の理を知り、善悪とか成否を判断し、物事を処理する知恵がなければならない」と言われれば、大概の人が「なるほど」と肯(うなず)くだろうし、拙僧だって「そのとおり」と思うのだが、事はそれほど簡単ではない

 揚げ足取りに近くなるので、書くのに気が引けるが、「生活のチエ」とか「おばあちゃんのチエ」とかいうものは、多くは謂うところの単なる知識に過ぎない。譲ってこれらを知識に分類してしまうことにしても、まだまだ問題は残る。

 一体全体、人はどのようにして「知恵」なるものを身につけるのだろう。生まれついて身にそなわっているものなのか。幼児を見ていて「いつ、どこでこんなチエがついたのか。」と驚かされることがよくある。「つく」という言い方や、驚くことの中に、「生まれついてのものでない」と言う考え方が隠れているが、それはさて置き、大抵はいわゆる「子供のチエ」というやつで、「いつ、どこで」がわからなければ「生得もの」と考える人もおられるだろう。拙僧には、これとて生得のものとは思えないのだが、仮にそうだとしても、とても大人の知恵と同じようには見えない。

 とすれば、人は「判断のし方」や「処理のし方」も最初は、やはり知識として覚えていくものなのだろう。勿論過去に貯えて来た、いわゆる知識と、身につけた「判断のし方」や「処理のし方」とから、新たな「判断のし方」や「処理のし方」を創りだすことはある。しかし、知識として得たものに比べれば、物の数ではない。「いつ、どこで、誰に教わったのか」ということを忘れてしまっている場合も多いだろうし、覚えていても「知恵」を発揮する場面で、一々出典を明らかにすることも殆どしないので、知識であることに気付かない、というわけである。

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