UFO通信 |ゲーム大好きおじさんは、日頃こんなことを考えている by Ufo

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 話がわきにそれてしまった。将棋型のゲームは戦争の模擬体験である。武道のように戦いの具体的様相を強く残しているものから、囲碁のように抽象段階の進んだものまで色々であるが、いずれにしろ実際に戦わなくてよい、殺しあわなくてよい、という仕掛けになっている。ここが大事なところである。ゲームこそ人類の最高の叡智の一つであろう。即ち本佛釈尊の慈悲のあらわれである。

 谷川兄弟の父上の教育は、闘争本能を満足させつつ(おそらくは二人の闘争心が人並以上に強いのを見極めた上で、双六型のゲームでなく将棋型を選ばれたのだと思われる)実害のないものに変換していくという、まこと佛の慈悲の具現であると言えよう。

 今、私は「本能」という言葉を使ったが、厳密な意味で闘争心が本能であるのかどうか知らない。少なくとも十界互具の法門から言って、我々の心の中に闘争心が巣くっていることは確かである。これをむやみに押え込むことは賢いやり方ではない。ドラゴン・クウェストのところで書いたように、冒険心についても同じこと。こうした我々の心の奥底にあるものを押え込めると、いつかどこかで噴(ふ)き出すものである。闘争心を悪と決めつけて押え込めることが、一時は成功するかに見えても結局は大きなシッペ返しを喰うことなど、キリスト教国の歴史を見ればよくわかることである。我々の心に闘争心があることも佛の慈悲であることに気がつけば、世の中うまくいくと思うのだが……。

 さて、もう少し話を拡げて見よう。前号にほんの少し書いたことだが、世間には「敵国を仮想し、再軍備必要なり」と唱える人が結構おられる。本宗にも僧俗ともにかなりおられるようである。この方々に申し上げたいことが二つある。

 一つは、再軍備必要論が自己の闘争心を満足させる、という点から出発したのかどうか、ということである。もしそうなら、もう一度考え直されてみてはいかがであろうか。二つ目は、日蓮大聖人が他国侵逼難(たこくしんぴつなん)に対し、どういうことをせよと御下命になっているかを考えてご覧になることをお勧めしたいと思う。再軍備必要論者達がよくいう言葉に「ふりかかる火の粉は払わねばならぬ」というのがある。「火の粉」については、その原因が人間である場合と、天変地異の類である場合とがある。人間である場合には、その人間が意図的な場合とそうでない場合がある。いずれもその火の粉を払うについて、大聖人は「正法護持によれ」と御下命になっている。再軍備を論ずる前にすべきことがたくさんあるように思うが、どうであろう。

 ついでに言うなら、再軍備を進めることは、死の商人といわれる人達に手を貸す結果になることをお忘れなく。

H2.4/20初出〉

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