UFO通信 |戦後の見事な成果 by Ufo

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 かわいい幼女達が殺されてしまった。

 容疑者・宮崎勤の逮捕・起訴に至るいきさつは、TV・新聞・週刊誌などで連日いやというほど報道されていたので省くが、これほど世人をして震撼(しんかん)せしめた事件も珍しい。この種の事件では必ずと言っていいほど社会環境に犯行の原因を求め「犯人こそ被害者である」と言い出す輩がいるが、今回ほど彼らが声をひそめてしまったことも珍しい。そういう輩にとってさえ、唾棄(だき)すべきおぞましい事件であったということなのだろう。

 犯罪の原因を個人の資質に求めたり、環境に求めたりと、過去、種々様々に意見が闘わされたが、いずれも有効な犯罪防止の成果を挙げ得ないでいる。石川五右衛門ではないが、世に悪の種が尽きないことは、十界互具に説かれてある通りだし、我々の脳の中には爬虫類野(はちゅうるいや)という部分があって、攻撃本能を司っているという説もある。

 しかし他方では、仏や菩薩(ぼさつ)の心も我々に備わっているのだし、攻撃本能は摂餌(せつえ)行動の能率を高めているし、また我々は攻撃の表情を笑いの表情に転化し、挨拶という文化も発達させた。更に闘争の様々な様相を様式化して、実際に相手を殺傷することなく、いわゆる闘争本能を昇華させるスポーツやゲームも発達させた。

 例えば、視線でいえば、相手を見凝めることは攻撃の意図を持っていることの合図であるが、他方では、相手の目を見て話を聞くことは、非礼にならない最低限の態度とされている。又、相手が恭順の意を表せば攻撃を止めるのも広い意味で文化の一つと言えようか。

 幼児に対しては、群れをなして生活する哺乳動物がほぼ無条件に柔和な態度をとることは、日本猿のボスが自分に仕掛けられる仔猿のいたずらに対して実に寛容で、忍耐強いのを見ればわかる。しかしこれとて常にそうだと言うわけではない。勿論、人類を生物の一員として見る場合でも、他の動物の行動様式をそのまま我々人類にあてはめる愚は、厳に戒めなければならない。例えばハツカネズミでは、生息密度が高くなり過ぎると仔殺しや共食いが始まるという実験結果もあって、生物学者の間では生物達のこうした一切の行動を、各々の種の保存にかなった仕組みであると容認する考え方が支配的になっている。これを人類にそのままあてはめると、戦争は(隣の部族との角突きあいから近代の大量殺戮戦に至るまで)人類という種がより広範囲に拡散することで生存のチャンスが増える原動力になり、また増え過ぎた人口を調節するのに役立つということになる。しかしこれでは戦争肯定論になってしまい、大いに問題である。増え過ぎるのを効果的に防止する手段を、戦争を初めとする殺しあい以外に見出すことができるのも、また人間だからだ。

 ともあれ、ある事柄を一方からしか見ない態度、一方に片寄った思想や意見は、実り少ない、或いは害になりこそすれ一利も無いことは、お釈迦様が断じられたとおりである。一方では人生を闘争ととらえ、勝つことだけが人生の諸問題を解決するという考え方が、他方ではどんないさかいも避けて通ろうとする考え方が分離して発現したところに、問題があるのではないか。一人の人間の内面で、どちらか一方を押し込めてしまおうとするところに無理が生じたのではないか。

 新人類と呼ばれる若い人からこんな話を聞いた事がある。彼は学生時代、友達とのつきあいではなるべく内面に触れないように話題を選んでいた。従って政治・宗教の話は一切しなかったそうな。近頃のファッション化とは、内面を問題にしないと言う点で、軌を一にする現象なのかもしれない。しかし、これはあらそいを避ける点においてかなり有効な手段ではある。思えば、戦前のことは知らず、戦後はずっとこの方式を追求して来たのではないだろうか。核家族化を推し進めてきたのも、隣近所との交際をできるだけ縮小してきたのも、世代格差を強調し、世代間のつきあいをできるだけ無くそうとしてきたのもそうだと言える。その意味では、宮崎勤は戦後の見事な成果と言うべきだ。

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