開目の章 |第14回「身に読む悦び」 by Taiko

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 日蓮聖人が受けた法難は、暴徒によるお住まいの焼打ち・斬首(ざんしゅ)の刑・島流し・罵詈雑言(ばりぞうごん)・殴打(おうだ)等々様々で、小さなものまで含めるとその数は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がありません。ところが大聖人は、ご自身に迫害を加えた人達に対して微塵(みじん)の怨恨(えんこん)も抱くことはありませんでした。逆に「喜ばしいことである」とお考えだったのです。

 御遺文(ごいぶん)にはこうあります。

「釈尊が入滅されたあと二千二百余年の間、法華経を広めた中国の天台大師といえども、法華経安楽行品の『一切世間に怨(あだ)するものが多くて法華経を信ずることが難しい』とある経文を、身をもって読まれてはおりません。法華経勧持品にある、法華経のために『しばしば追放される』と明らかに定めてある経文も、身に読んだ者はインド・中国・日本の三国の中では日蓮一人だけです。

 釈尊は法華経法師品で『一句一偈の修行にも皆成仏の保証を与える』と説かれましたが、それを受けるのはこの日蓮だけです。この上ない悟りを得ることは疑いありません。

 日蓮に法華経を身をもって読ませてくれた相模守(さがみのかみ)北条時宗殿こそ仏道を成さしめてくれた人であり、日蓮を殺害しようとした平左衛門頼綱(へいのさえもんよりつな)こそ、釈尊を殺害しようとした提婆達多(だいばだった)のような人です。今の念仏者は釈尊のご在世の時に、釈尊を迫害した瞿伽利尊者(くぎゃりそんじゃ)のようであり、律宗の人びとは善星比丘(ぜんしょうびく)のようなものです。このように考えてみますと、まさに釈尊の在世が今の世に再現し、今こそ釈尊の在世と同じなのです」

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