いつそば「我聞の章」 |第16話「安らかに忍ぶ」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

やさしい法華経物語

ウッキ〜くん

妙ちゃん

グリトラクータ童話

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 君の行く道は果てしなく遠い。
 だのに、なぜ歯をくいしばり君は行くのか。
 そんなにしてまで。

 ひと昔前、日本の中学・高校の学園祭やキャンプファイヤーのフィナーレでは、定番だった歌だ。

 私の名は阿難(あなん)。三千年もの長い間、お釈迦さまの光と風の世界を旅しているが、この歌を聴くと、ふと「果たして歯をくいしばって努力することだけが大切なのだろうか?」と思うことがある。

 尊きお師匠さまは「法華経をよく持(たも)ち、一切の難事=迫害に打ち勝つのは、仏を敬う心である」と示され、難事の内容を詳しくお説き下さった。それに対し文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)は「ここにいる菩薩たちのために、様々な苦難の中で法華経を広める心構えを、もう少し詳しくお聞か下さい」と問われたので、再びお師匠さまは「安楽行品」としてお説き下さったのだ。

 そこで私は思い出す。尊きお師匠さまのお心を最も深く、最も正確に理解されたお一人、中国の天台大師のことを……。大師はお師匠さまのご入滅から一四〇〇年余り経ってお生まれになり、「中国の小釈迦」との異名を取られるほどの人だった。そして、お師匠さまのお言葉を「安楽行の安とは安忍(あんにん)の義」と解説して下さったのだ。

 目標に向かって忍耐が必要になった時、歯を食いしばり肩に力を込めての忍耐は、いつも成功へつながるとは限らない。それで天台大師は「安忍なれば、能(よ)く忍びて道事を行ず」とおっしゃった。必死の形相で苦しみながら耐えるのではなく、安らかな忍耐でなければ、本当に大切なことを成し遂げることはできない。安楽行とは、正しい教えを広めるため、普段と変わらない安楽な気持ちを保ったまま、多くの難事に打ち勝つということなのだ。

 そこでお師匠さまは、末法という時代以前の悪世で法華経を広めようとする多くの菩薩方に対し、具体的な安楽行をお示しになった。そして、教えに従って精進する者をこのように讃えられた。

「衆生が法華経を広める者の姿を拝みたいと願う心は、賢者や聖者を慕(した)うがごとくであり、天上界の童子たちも給使(きゅうじ)することだろう。刀や杖で打たれることもなく、毒をもって害することも不可能である。もし法華経を広める者を憎んでののしるならば、その人の口はふさがってしまうであろう。そして、法華経を広めて歩く者の姿は、一切の畏(おそ)れを抱かない師子王(ししおう)のごとくである」

 しかしお師匠さまは、まだすべてを説かれたわけではなかった。末法の時代においても、現実の世界をそのまま浄土にしようというお師匠さまの慈悲を実現するには、真の弟子の登場が待たれるのだ。

妙法蓮華経「安楽行品第十四」より/つづく)

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