UFO通信 |宗教は科学と対立するか?(2) by Ufo

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 では、仏教は「進化論」を採用しているのかというと、愚僧の知る限り、明らかにそれを論述している経典は無い。では、進化論を書いている経典が無いことが事実であるとして、進化論に対してはどういう態度で臨んでいるのか、という問題になるわけだが、ここでも仏教はさすがに「真理」であって、動ずる気配は微塵も無い。

 よく知られた法門に「諸行無常」というのがある。日本では平家物語の「盛者必衰」と結びついて、「人の世は儚(はかな)い」との意味を強く感じさせる一句になっているようだ。「奢(おご)れる平家も久しからず」の名文句と共に、盛んな様を誇っていてもいずれは衰え、落ちぶれることもあるというような、言ってみれば諸行無情(!)のようなマイナスイメージでとらえられることが多い。

 確かに、仏教がどちらかといえば侘(わ)びや寂(さび)、あるいは「盛者必衰」と結びつけられ、煩悩のままに猛進することを戒めることが多く、ある意味致し方のない傾向かもしれない。しかし、倫理・道徳を離れた、哲学的・論理学的な場面では、諸行無常は単に「あらゆる事物は変化する」の意味でしか無い。確かに、その中に「盛者必衰」もある。が、「衰者必盛」も含まれる。

 平安時代後期から仏教が一般民衆の間に広まるにつれ、学問的要素は薄まってゆき、倫理・道徳的側面が強調されるようになって、上のような傾向になったのだろうと思われる。特に明治以降・第二次大戦後は西洋の学問を移入するに急な余り、僧侶までもが仏教の学問的側面をないがしろにしてきた。つまり自らは仏教の学問の研鑽を積まず、他方では仏教の学問的側面を一般大衆に伝えることを怠ってきたように思われる。

 さて、諸行無常の意味が、本来は単に「物事は変化する」という意味であるとすると、進化論との親和性は非常に高いと言える(もちろん、中生代にあれほどに栄えた「恐竜」も、と感慨にふけるのは自由ではあるが……)。

 また、キリスト教が「神の秘蹟」なるものを重視・強調するのとは大いに異なり、仏教は「因果論」を採用している。これなど自然科学と全く同じ基本的な思惟法であり、やはり親和性は高いと言える。「なぜ我々はここに存在するのか」という疑問に対して、キリスト教は「大いなる神の秘蹟」という解答を提示している。ある事象の起源について、神の創造説をとる宗教や思想は数多いが、他方、仏教はほとんど何も答えない。

 仏教は、つまり釈尊は人間が抱える諸問題をどう解決するかに関心があったのであり、その起源を人間以外の存在のせいにしても解決しないことを御存知であったからであろう。つまりこういうことだ。時間軸で言えば、仏教は「未来」に関心があり、キリスト教はより「過去」に関心があるのであろう。

 さらに、仏教は人間社会を善くするのに、諸問題の解決に役立たない「起源」に頭を悩ませても仕方がないと考えている、と思われる。いまさら「智恵の木の実」を悪魔に突っ返すわけにも行かないのに、「イヴが欲に駆られてそれをもらったからだ」と女性のせいにするとか、「いや、そそのかした蛇が悪い」と嫌いな生物のせいにするとか、「そもそも、そんなものを創った神が悪い」と第一原因を作った者のせいにするとか……。侃々諤々(かんかんがくがく)、そんなことにエネルギーを費やす余裕があるなら、もっと他にすることがあろうというものだ。

 古今東西、女性を貶(おとし)めようとする神話・伝説の類は数知れずあるが、誰もが納得し得るような根拠はない。ある意味、男性側の劣等感の裏返しの表現であろう。仏教にもその残滓(ざんし)が無くはないが、法華経において見事に払拭されている。基本的に男女平等を謳(うた)っているのは、愚僧の知る限り法華経だけである。

 この辺りから、若者たちとの議論は新たな展開を見せ始めた。「天動説か地動説か」「進化論をどう扱っているか」といった指標から外れて、「我々がいま理想とすべき社会にとってどんな指標を採用すればよいのか」といった基本的な方向の問題も採りあげ始めたのである。上に書いた男女平等の問題も、その頃のフェミニズム運動と関係があったのかもしれない。

 いずれにしろ、問題を絞ったつもりが、またもや茫洋(ぼうよう)と拡がってきたかのようであったが、それはそれで楽しいことでもあったのだ。

 閑話休題。

 仏教では、天動説を採用するとも、地動説を採用するとも、正式宣言は無かったようだし、「神による衆生の創造」も特に強調されているわけでもない。いずれにしろ、キリスト教が自然科学と鋭く対立したいくつかの問題点については、仏教は自然科学と対立するような主張をしなかった、というのが実情である。

 人間について言えば、もう既に存在しているわけだし、出来れば無くなれば良いとさえ思っているほどの数々の問題点を抱えていることも事実である。仏教の信奉者にとっては、こちらの方が先に解決すべき問題である。

 もし仮に、キリスト教が言うようにGOD なるものが実在し、我々人間を創造したとしよう。しかし、その人間に数々の問題を背負わせた張本人がそのGODなのであるから、彼にすがってこの問題が解決するとはとても思えない、というのが合理的な考え方というものだろう。

〈H21.12/8初出〉

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