UFO通信 |カラスが道具を……(3) by Ufo

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 もちろん仏教が、あるいはその教義が杜撰(ずさん)だという訳ではない。特に大乗仏教は「煩瑣哲学(はんさてつがく)」という評言があるほどに精緻を極め、特に論理学や人間の心理に関する分野では余すところは無いように感じる。

 論理学に関する部分で言えば、恥ずかしながら、愚僧『中論』は途中で投げ出してしまったほどだ。例えば「原因」と「結果」についても、およそ考え得る限りの場合を尽くして検討を加えているのである。愚僧の想定外のことまで検討されていて、それはそれで大変勉強にはなったのだが……。それはともかく、人間の心理に関する分野でも、その考究は欧米の心理学やそれに類する学問を遥かに超えている。

 こうした違いには、宗教の違いによるところもあると思われる。ヨーロッパの学者たちは「神の奇跡」に対する興味をもっている、つまり神の被造物を詳しく調べることにより、神の御業がいかに優れたものであるかを証明したいという、切なる願いをもっていたと思われる。自然科学の黎明期(れいめいき)には、自然科学を推進した人の中には神学者(神父)も少なからずいたのである。

 もう一つ、先にも書いたが、神(創造者)と被造物との峻別(しゅんべつ)に始まる「区別」の考え方が、「唯物論」と「唯心論」とを総合する考え方を育てなかったことである。唯物論や唯心論に限らず、基準を単純化してすべてを説明しようとすると、必ずと言ってよいほど論理の綻(ほころ)びを生じるようだ。「性善説」や「性悪説」などもこの例に挙げてよいだろう。

 翻(ひるがえ)って、仏教は唯物論でもなく唯心論でもない。物の「存在」を認めないわけでもないし、心のありようで物が変化することも認めている。また、物によって心が変化することも認めていて、両者の相互作用であるという。

 このように、物事を総合してとらえ説明できる理論でなければ、地球全体、宇宙全体を破壊から救うことはできない。ある部分を救うことができても他の部分を救うことはできない、ある人に都合がよくても他の人に都合が悪いことがあるのと同じなのだ。

 仏教といえども、仏典によっては一部分しか救わないことになっている。全体を説明でき、全体を救う考え方に立ち、そのプランを提供しているのは『法華経』のみである。日蓮聖人が『立正安国論』を奏上(そうじょう)なさったのは、いかなる意味においても真に正しい行為であったと言わざるを得ないのである。

〈H20.2/2初出〉

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