UFO通信 |仏になったらどうなるの?(5) by Ufo

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 なるほど、身体はミイラになっているとはいえ残っているし、死ぬことを成仏というなら、それもそうであろう。壮絶な最期と言うべきなのかも知れないが、こんなことを即身成仏と思われては非常に困る。

 まず、僧侶が自分の身体を後々まで残そうと考えることからして、仏教の習慣に沿っていない。仏教では、葬送儀礼のうち死体の処置に関しては、基本は荼毘(だび)である。もちろん、釈尊も入涅槃の後、荼毘に付されている。「即身」というのは、本来「今生きているそのまま」という意味であるはずであって、どう考えてみても「ミイラ」になることを指すとは思えない。あまり想像したくはないのだが、ひょっとしたら、生前彼らは釈尊の名をかたって自らの命を養っていたのかも知れない。

 次に「死ぬこと」を「成仏する」と言うことについてだが、こちらはこのミイラの例と違い、広く言われていることである。一体誰がこんなことを言い出したのか知らないが、これも仏教の基本にはないはずで、愚僧の勝手な想像を許してもらえば、古来からの先祖崇拝の影響で、死んで「神」になる例があり、おそらくは神が仏にすり替わったものであろうと思われる。どうやらこれも本当の成仏ではないらしい。さて困った。

 ご本尊の前での読経についての、大聖人のご教示はよく知られている通りであるが、あるご老僧によれば、これも即身成仏の一つの形であるそうだ。これはうなずけることである。在家と出家を問わず、これなら可能である。ところが残念なことに、ご本尊の前での読経だけで生涯を送るわけにもいかない。

 そこで釈尊の教え通りの行動をとる、つまり、一切衆生の仏性を呼び覚ますために常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の「礼拝行」をする、法華経を説く、お題目を聞かせる、等々の行をすることが考えられる。これらはいずれも釈尊の大慈悲より発する行動をなぞるものであるそうだ。

 なるほど、これなら相手が家族であれ、親戚縁者であれ、友人であれ、赤の他人であれ、誰に対しても出来る。いつでも、どこででも、誰もが出来そうなことである。常に心の奥底にご本尊を念じながら、時に応じ場合に応じて、先の読経も含め適切な方法を選べば良い。

 と、こう書けば簡単なようだが、どうもこれも随分難しそうに思える。礼拝行にしたところで、実際に合掌して頭を下げることはしなくても、常に相手の仏性に尊崇の念を持ち続けることが出来るかどうか、時には軽蔑し、時には無関心になってしまうこともあるのが普通であろう。

 法華経を説くとなると、これまた難しい。日常生活の細々したことから、仕事の話やら趣味の話、大きくは世界の政治情勢や経済情勢の話題、未来の展望にいたるまで、法華経の一節やご妙判の一節を引用するまではいかなくても、常にその基本精神に忠実に話せるかどうか、はなはだ心もとない。ついつい恣意(しい)に流れ、後で先輩に尋ねて訂正しなければならないこともある。

 お題目を聞かせるのは、さらに難しいように思える。唱題行脚の時はそれ程ではないが、神社や他宗の寺院の前で高声に唱えるのはかなり勇気がいる。ことに同行の者がいると関係ないような振りをされ、とてもやり難い。空中浮揚の方がよほどやりやすい、とは言い過ぎか。

〈H8.3/25初出〉

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