UFO通信 |才能って一体何だ?(2) by Ufo

想

小坊主のつぶやき

いつそば「観心の章」

いつそば「開目の章」

自在生活ノススメ

UFO通信

のほほん評判記

 もう少し具体的に言うと、子供をもっと遊ばせてやることである。子供の遊びについては、様々な意義があると考えられている。例えば、人とのつきあい方の練習をしているのだとか、文化の伝承があるのだとか言われている。が、拙僧はそこに「自らの才能の発見」を加えたいのである。

 というのは、釈尊の教えのとおり、人は自らの才能がどちらに向いているのか、どの程度のものなのかについては、なかなか知り得ないものだから、結局やってみなくてはわからないからである。従って子供達にはできるだけ経験を多く積ませてやることが必要で、子供達の経験即ち遊びである。

 周りの大人に出来ること、あるいはすべきことは、子供達が自身で自らの才能を発見するのを手伝ってやることである。子供達は、遊びを通して出来ること・出来ないこと、面白いこと・面白くないこと等々が分かっていくのであって、これは子供自身が経験しなくてはならないことなのである。

 子供達が、もうやりたいことがなくなってしまった、という時点で、周りの大人は「まだこんなこともあるよ」と、子供が知らない世界を提示してやればそれでよい。

 熱中する対象を持たない子供達や、熱中しているように自分に見せかけている子供達を見ると、かわいそうでならない。受験勉強以外のことに手を出そうとすると、すぐに周りの大人から禁止される。また、明確な言葉で禁止されないまでも、長く続けるならとか、マイナス点を数え上げられるとか、事実上禁止されることが多いようだ。

 しかも、それが極く幼少の頃からの習いになってしまっているから、自分が能動的に動こうとすると親の機嫌が悪くなるので、子供たちは好奇心を押さえ込み、自ら動こうとはしなくなってしまう。だから、いい加減成長してそろそろ一人前という頃になっても、自分では目標を設定してそれに関わることが出来ず、誰かに枠を決めてもらわないと何も出来ないという大人(とも言えない)が増えている。

 その上、自分で徹底的に錬習した、習得した、というものが無いから、見る側や聴く側になっても良し悪しがわからない。音程をまともに取れない歌手や、デッサンが出来ない画家、ロクロもろくろく扱えない陶芸家、中学生の作文程度の文章しか書けない小説家などが横行する始末。何もかも、と言っても決して言い過ぎでない程、いいかげんで中途半端である。

 その上、周知の通りほとんどの学校の先生達は、子供達の才能発見や錬磨には手を貸してくれない。受験指導でさえ、本来問われるべき「子供達の才能を活かす」という点は等閑(とうかん)に付され、単に成績の上下で割り振るのみであり、それさえも拝金主義者たるテスト業者にまかせっきりという状態である。

 子供達の学校での生活の酷(ひど)い状況については、しばしば聞かされている。先生達の中には、先に書いた「大人とは言えない大人」である人もいて、何か問題が生じた時にどう対処してよいのかわからず、その解決を私塾の先生に頼み込む、などという笑えない話も聞く。

 こんな有様の中では、せめて我子や周りにいる子供達に、少しでも自分で才能を発見し錬磨する手伝いをしてやろうと思うのである。

 繰り返すようだが、自分のことは自分ではなかなか知り得ない。このことは、実を言えば子供だけでなく大人にとっても同じことが言える。釈尊の御心にかなう人生にするためには、一生「己を知る」努力を怠ってはならないと思う。

〈H5.4/25初出〉

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.