UFO通信 |才能って一体何だ?(1) by Ufo

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 近頃、インドへ旅行した人達の感想として、人間としての生活の本源がそこにある、というような話を聞くことが多いが、がんじがらめの身分・職業制の中で暮らすことの意味を、もう少し深くお考えになる方が良いのではと、いらざる老婆心かも知れないが、つい考えてしまう。というのは、まったくと言ってよいほど職業選択の自由がないインドの子供達と、自由なようでありながら、結局は金儲けにつながることしかさせてもらえない日本の子供達と、どちらも不幸なことにあまり変わりはないと思えるからである。

 人間にとって全(まった)き自由というものは、かえって重荷になるようで、意識的にも無意識のうちにも、何か依りかかれるものを捜したり作り上げたりする傾向が非常に強い。こうして出来上がったものが、恐らくは文化の基本の一つになっているのだろう。戦後の日本では、拝金主義がそれに当るように思う。

 その一方で拝金主義に染まることを嫌う人達が、インドへ行って拝金主義とは無縁と思われる生活を見て感動する、というのはよくわかる。しかし落ちついて考えてみると、せいぜいのところ「どちらの不自由」を選ぶか」という問題でしかないように思える。

 「平等」という軸で見ると、確かに日本とインドとは対極に位置しているようだが、「自由」であるかどうかと考えると、どちらも似たようなものだ。不自由であることが、明らかに見えるような枠がないから、一見自由であるように思われるが、現実には不自由を強いられている。特に最近の子供達の生活を見ていると、その感が強い。

 愚僧は、どちらが良いとか悪いとか言っているのではない。ある視点から見て正反対の位置にある人生を参考にする、ということは誰もがしていることであり、また必要なことでもある。言いたいのは、もっと視点を多く持つことが必要なのではないか、ということである。

 もって生まれた才能を活かすことのできる人生というのが、幸福な人生の条件の一つである、ということについては、ほぼ異論はないものと思う。なぜこんな書き方をするかというと、最近は目立たないが、生まれもっての才能や資質に一切差はないとする、言わば完全平等論を唱える人もいるからである。それはさておいて進めると、生まれつきの才能や資質を活かせるような社会であるか、そういう仕組があるか、と言えば、はなはだ心もとない。

 先に書いた平等や自由がこのことに深く関係していると思うが、平等を唱えれば行き過ぎて「悪平等」になってしまい、自由を唱えれば、形の上では自由なように見せかけておいて、わけのわからぬうちに「不自由」な状態におかれてしまう、という始末でなかなか上手くいかない。

 世の中の大勢が極端にはしったり、あるいは極く狭い価値基準で動いてみたり、つい数年前のこと「3K」の職業が嫌われたり、二十数年前の高度成長期には教育界に優秀な人材が集まらなかったり、という具合である。

 ことのついでに言えば、教育に向いていない人や、教育に情熱を持っていない人達が、多く教育現場に立った結果、どれ程そこが荒廃したかがよく言われているし、愚僧も具体的な話をよく聞かされている。それらがすべて事実だとは思いたくないが、登校を拒否する子供達の増え方を見ると、かなりのものだと思わざるを得ない。

 才能や資質を活かすことは本当に難しいものだ、と常々思っている。そのことについて、今回は環境面から少し考えてみたが、次回は才能や資質について直に考えてみたい。(つづく)

〈H5.3/25初出〉

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