UFO通信 |久しぶりの大和路(3) by Ufo

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 さて法隆寺といえば「聖徳太子」ということになるが、梅原猛が「恨みを遺して死んだ聖徳太子の鎮魂(ちんこん)のために建立された」との新説を近年提出し、物議をかもしたことがあった。もしこれが正しいとすると「法隆寺は聖徳太子の創建ではない」ということになり、法隆寺側にとっては都合の悪いこととなる。もっとも、梅原氏以前から「若草伽藍(わかくさがらん)」なるものの存在が主張されてはいた。つまり現在の法隆寺は、太子の創建でないということである。太子の創建に“なる・ならない”はともかく、いずれの側にも決定的証拠はなさそうである。

 そこで、勝手な感想を述べさせていただく。例えば、梅原説では門の真中に柱があることが鎮魂の証拠であるかのように言われたのだが、もし当時の人達が通念として、門の真中の柱が「恨みを遺して死んだ者の魂がさまよい出るのを防ぐ効果がある」と考えていたのなら、門の真中に柱のある寺やそうした遺跡、また三本柱の鳥居などというものが、他にももっとあってよさそうに思う。しかし、拙僧は寡聞(かぶん)にしてそういうものを知らない。

 また通念としてあったものなら、そういう形式はなかなかすたれないものであろうし、逆に通念としては無く、目新しいやり方や珍しいものであれば、何らかの形で記録に残されたり、あるいは言い伝えとしてでも残されたはずであろう。拙僧にとっては、法隆寺の門の真中に柱があることの説明など、言わばどうでもよいことなので、梅原理論に代る理論を提出しようとは思わないが、少なくとも梅原理論が少しも合理的でないとは考えるものである。

 ところで、上に拙僧が書いたようなことは、少し落着いて考えて見れば誰でも気がつくことである。これまた勝手な想像であるが、梅原氏は手持ちのたくさんの資料のうち、門の真中の柱や、その他数少ない事柄の説明を考えているうちに、「鎮魂」という言葉に行き当たったものであろう。その後、これをキーワードに他の資料をまとめて見ると、実にきれいにまとまるので有頂天になったのではないか。

 実は、この時が一番危険なのである。「これをキーワードに他の資料を洗い直して見ると」とか「これを念頭に他の資料を見直すと」というのは、こうした場合によく用いられるレトリックである。しかし、裏返せば「結論を先ず決定し、その結論に合うように資料を探しみると、並べ換えてみると、説明し直して見ると」と言っているに過ぎない。筋が通るのは当然である。無理矢理通したのだから。実は無理矢理通しておきながら、一点光明が差すと見えるや全体が非常に明確になり、と思えてしまうのが凡夫の悲しいところである。まったく嬉しくなってしまっているから、誰もが気の付くようなことも見えなくなっている。

 大体「筋が通る」などということが「この世の中にある」と思っている方がお目出たいのであって、論理が首尾一貫することがあるのは、極く限られた範囲の中だけでのことである。

 この辺の事情については、例えば中学校で習う幾何学(今では図形)を見ればよくわかる。数学、中でも幾何学は、ほとんど論理だけで成立っているのだが、扱っている範囲がどれほど狭いものかは、よくご存知の通りである。それが証拠に数学嫌い、中でも幾何嫌いの人にその理由を尋ねると、必らずと言ってよいほど「現実の生活に役立たないから」という答えが入っている。扱える範囲が狭すぎて、ものの役に立たないというのである。まことにその通りである。

 先述の「通念としてあったものなら……」以下、誰でも気の付くはずのこととして書いたことは、言わばごく簡単な理屈であり、論理などというほど大袈裟なものではない。論理をわきまえない者は、論理からしっぺ返しをうける。これまた理の当然、人生の妙というものか。(つづく)

〈H6.9/25初出〉

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