UFO通信 |久しぶりの大和路(2) by Ufo

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 確かに「古いものほど辺境に残る」というのは、文化に関する法則と言って悪ければ、傾向の一つである。例えば「京都で次々と変化していった言葉が順次地方に伝わり、結果として京都を中心とした同心円状に、外側から古い順に時々の京都の言葉が残っている」とする金田一博士の説も無視できない。またフランス語にしても、二百年ほど前の言葉であれば、かえってカナダに移住した人達の間に残っていると聞く。

 単にこうした傾向が現われただけだ、という考え方もあるかも知れないが、一方で日本は今や世界一と言って良いほど電子工業を発展させた。廃(すた)れたものもあるにせよ、伝わって来たものは消化し、千年二千年の時を隔てて伝えているというだけなら、世界各地にいくらでも例はあるだろう。しかし新しい事物についても、世界で一・二を争うところまでいくというのは珍しいのではないだろうか。新旧混然とし、とりとめが無いようで何となくまとまっている、面白い国だと思う。

 手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、大仏建立の安全を祈って九州から勧請(かんじょう)したものとされている。インド伝来の仏像を造るために日本の神の加護が必要だ、というのは変なことかも知れないが、恐らく本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)がまだ充分に日本の隅々まで理解されず、信じられていなかったのであろう。あれほど大規模な鋳造仏(ちゅうぞうぶつ)を造り得る技術者を、奈良周辺だけでは集められず九州から手配するのに、彼らの祭神を勧請しなければならなかったものと思われる。現在であれば技術者の単身赴任も可能であるが、当時は一族郎党(いちぞくろうとう)引きつれての移住であり、恐らくは祖先神である彼らの祭神も一緒に移動したのであろう。これは歴史学者達の間でほぼ通説となっている。

 とすれば、大仏を造った人達の中には仏教徒でない者もいるわけで、彼らはどんな思いで作業を進めていたのだろう。また、出来上った大仏像を見てどう感じたのだろう。仏に対する賛仰の気持が起きたのだろうか。仏の教えを信ずるようになったのだろうか。

 それに東大寺の僧侶達は、この八幡神をどう考えていたのだろう。どう扱っていたのだろう。今となっては彼らの心の内までは見えない。「共通する部分もあり、異質なところもある」とまではわかるが、それがどの程度なのか、どこが共通でどこが違うのか。自分の心の内を深く探ることで、いく分か解るだろうか。

 ところで、奈良と言えば鹿。ということで、これまた久し振りに「鹿せんべい」を買い与えた。のであるが、観光客の少ない季節、しかも午前中で鹿も空腹であったのか、頭を下げるだけではおさまらず、つっつくわ服を引っぱるわで大変であった。それでもまだ買っているところに押寄せたが、買うそばから束(たば)のまま引ったくるほどではなかったので、ましとせねばならないか。

 外国の高官などが奈良見物に訪れた時に行われるだけなので、滅多に出合わないが“鹿寄せ”について。

 前夜の内にできるだけ多くの鹿を鹿苑に集めておき、飛火野の一隅、雪消の沢の近くで高官達ととも待ち受けホルンを吹き鳴らす。と、何百頭という鹿達が一勢に走り来る。見事な光景である。ところがそのホルンで奏するのが、ベートーヴェン作曲“田園”の一節。その昔は、春日大社の“神鹿”ということで、殺せば石子詰(いしこづめ)の刑に処せられた。その鹿も、現在ではベートーヴェンのメロディーで寄せられる。面白いではないか。(つづく)

〈H6.4/25初出〉

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