UFO通信 |久しぶりの大和路(1) by Ufo

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 世の中、何が正しく、何が間違っているかを見わけるのは非常に難しい。本仏釈尊のように無限の時間・無限の空間に生きることができれば、無限の知識があるわけで、当然ながら有限の問題について判断を誤ることはない。ある問題とそっくり同じことが、いつかどこかで起きた、ということは大いに考えられるし、少なくともよく似た問題なら何度も、実のところは無限回にもわたって起ったであろう。それらを知っていれば、今の問題について常に正しい判断を下せるというものである。

 我々人類は、個体としても、総体としても、有限の時間・有限の空間の中でしか生きていない。特に個体を考えた場合、その占める時間・空間はまことに限られたものでしかない。従って、直接に体験することといえば微々たるものに過ぎず、判断を誤ることも多い。しかし我々人類は、自分一個体の直接体験だけではなく、親やまわりの人達からの教育、また過去の記録や遠隔の地の情報等により、群体として、さらには総体としての知識を手に入れることができるようになった。本仏釈尊のお立場にできるだけ近づこうとするなら、こうした知識は多く、また深い方が善いと言える。

 ところが、極く少ない知識しかないのに正しく判断を下すことのできる人、深い洞察を示す人がいる。あるいは直感、あるいは霊感と言われたりもするが、いずれにしろ天才と呼ぶにふさわしい人達である。こうした例を挙げて「知識など少ない方がよい」などと言う人がいるが、冷静に見れば、天才と呼ばれる人が各々の方面で知識が豊富なこと、凡人の遠く及ばないところである。かのエジソンも「天才とは1パーセントの霊感と、99パーセントの努力である」と言ったとか。エジソンの努力が、その方面の知識獲得のために向けられることがまったくなかったとは考えられない。さてこそ、京都八幡の竹が、電球のフィラメントに最適であることも知れたというものである。

 確かに、本仏釈尊も「信を以って恵に代えよ」と教えられている。しかし、このお教えは「恵」は必要でないとか「恵」を捨てよとかの意味ではない。「恵」は必要なのである。本仏釈尊の「恵」を体得することなしに成仏はあり得ない。必要だからこそ「信」に置換える必要も出て来るのであろうと思う。ところが先に書いたように、我々凡夫の「恵」はどこまでも有限のものであるから、本仏釈尊の永遠性がわからない。ある瞬間、その永遠性を感得したと思っても、果してそれが本当なのかどうか保証の限りではない。その証拠に「無始の本仏」と言いつつ、一方で「久遠元始(くおんがんし)」と言ってしまう、あるいは言わざるを得ない限界というものがある。

 知識は多いほど良い、しかし無限でない限り「信」が必要である、というのが「以信代恵(いしんだいえ)」の意味であろうし、大聖人の「行学絶えなば仏法はあるべからず」の意味でもあろう。ただし、ここでいう「知識」は知識と智恵に分けた時のものではなく、広く「智恵」をも含んだものとしてご理解いただきたい。

 法華経のたとえ一部分であるとはいえ、また中心でないとはいえ、「修二会」の中で唱えられていることを知ってから「単なる観光行事である」とか「他宗のしていることであるから」とかいうような見方から、少なくとも拙僧は変化した。情に流されても良くないのであろうが、多少の親近感さえ覚えるのである。(つづく)

〈H6.3/25初出〉

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