UFO通信 |理性が危ない(2) by Ufo

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 愚僧(ぐそう)の勝手な推量(すいりょう)に過ぎないと思うのだが、恐らく世の中に「理性信仰」の気運が高まっていたからだと思う(これは「ドイツ国民がなぜナチスの台頭(たいとう)を許したのか」「戦前の日本国民が何故軍部の独走を許したのか」などと共に、歴史上の大問題の一つであろう)。それと同時に何らかの形で現証もあったのだろう。科学技術との結びつきなどはその好例と言える。

 「万人の幸福」を目標に掲(かか)げた時、個々人や民族の違いや宗教の違いなどによって、大きくあるいは微妙に異なり、その上変えることが非常に難しい感情によって物事の解決を計るよりは、万人に共通すると思われる論理性に頼ろうとするのは、自然の成行きというものであろう。現に証拠を見せられれば、感情的に受入れ難いものではあっても、理論の正しさを認めざるを得ない、ということは世の中によくあることである。これまで自然科学およびそれに根拠を置いた科学技術は、数々の現証を示して来た。そこで安易に信じ込んでしまったのだろう。

 ひるがえって自身について考えてみると、信仰を勧める立場にいるのだが、安易に勧めていいものかどうか、世は宗教時代であると単純に喜んでいいものかどうか、考え込んでしまうのである。

 法華経には「以信代慧(いしんだいえ)」(信をもって慧に代う。智恵だけでは解決できない部分があるので信ずることが大切である。あるいは、信じなければ理解できないことがある)という教えがある。ところが他方で無量義経に「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」(四十余年の間、色々に説法して来たが、まだ最高真実の法を説きあかしていない)という教えがあることから、パッと飛びついて、それが全てであると安易に信じ込んでしまってもいけないことは明らかである。

 もしこの「慧」が般若(はんにゃ)経典に説かれている「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」のことだとすると、「これは大変だ」とも思うのである。

 ところで、「八正道(はっしょうどう)」や「六波羅蜜(ろくはらみつ)」の教えでは、実践行動も含めて、我々の心をあらゆる側面で、バランス良く充全に働かせることが勧められている。どうかすると極端から極端に走りやすい我々の心や社会を見る時、これらの教えの重みは、いくら強調しても過ぎることはないと思える。“理性と情緒”で言えば“情緒”ばかりが、“合理性と神秘性”(この分け方がもっともなものだとは思わないが、他に適当な分け方を思い付かなかったもので……)で言えば“神秘性”ばかりが表面に出て来そうな現今の雰囲気を見るにつけ、ついつい「もうちょっと考える方がええのんちゃう?」と言いたくなるのである。

 「以信代慧」で言えば、釈尊(しゃくそん)の御真意は「慧」をつきつめることと「信」ずることが同時でなければならない、との教えであると考えるのである。

H4.10/25初出〉

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