UFO通信 |議論を偽論で終わらせないために(3) by Ufo

想

小坊主のつぶやき

いつそば「観心の章」

いつそば「開目の章」

自在生活ノススメ

UFO通信

のほほん評判記

 さて、この結論が正しいものである場合には、「得」のところで書いたように、単に実践に移す以上の効果も期待できるからそれはそれで良いのだが、時として次のような「失」もある。

 一つは議論の目的を忘れてしまうことである。目的は大・中・小目的というように、いくつかの段階に分かれると考えられ、多くの場合、大目的については成員の意見は一致しているようだ。

 けれども中目的・小目的となると意見が分かれることがあり、更に各々の段階にふさわしい手段を考えるとなると、成員それぞれの思惑やら利害関係やらでなかなかすっきりとはいかないことがある。そこでいつの間にやら大目的が忘れ去られ、ひどい時には手段が目的であるかのような議論になっていることさえある。

 もし実現せねばならない大目的を忘れることがなければ、様々な思惑やら利害関係やらも、ある程度抑制できるはずだと思うのだが、感情的になってしまっている時には、なかなか本道に戻れないようである。

 二つ目は、因果関係の複雑さを忘れてしまうことがある。

 前回に書いたように因果関係というものは、多くの場合それ程すっきりしたものではなく、これを充分に尽すことは冷静でなければできることではない。

 感情的になると、つい一本道の論理に陥(おちい)りやすい。もちろん一本道の論理がぴったり正しい結論を導く、ということがないではないが、多くは極端な考え方になり、これが現実をよりよく説明するものでもなく、問題の解決にもならないことは、お釈迦さまの御教えの通りである。

 三つ目は、二つ目とも関連する部分があるが、自らの議論・結論に固執するあまり、他の可能性に対して消極的、或いは否定的になってしまい、他人の意見の短所のみに目が向いてしまうこと。もっと困るのは、その場の成員誰もが考えつかないでいる可能性や結論に思い至ることが、阻害される場合があることである。

 成員各々の意見を持寄って議論した場合、元々あったもの以上のものが生み出されることがある。「三人寄れば文殊の智恵」というのは、このことを意味しているのだが、三人寄って三人分の智恵、あるいは二人分、いや一人分の智恵にしかならないというのでは、何のための議論かわからなくなる。

 それこそ「偽論」というものであり、会議が単に責任の分散化・不明瞭化のための儀式に過ぎなくなる。であれば、責任は成員全員で負うことにしておき、時間と労力を省いて誰か一人に任せておけば良いことである。

 せっかく集ったのであるから、文殊の智恵をひねり出さないことには意味がない。となると、例えば誰かの意見にあえて反対意見を提すことも、その意見の長所短所を勘案(かんあん)するためには必要なことであろう。

 ところが「俺にたてつきやがって」とか、反対意見を述べたものが後輩である場合には「若造のくせに」とかいうことになって、感情的シコリとしてあとを引くことが多いようである。

 そのシコリを残さぬために、いわゆる「根回し」ということが行われるのであろうが、よく考えてみると二度手間、三度手間であり、極端な場合「一席設ける」などということになると、能々酒をまずくして呑(の)むことにもなりかねない。酒を造った人達に対して失礼であろう。

 やはりここは一番、できれば徹頭徹尾(てっとうてつび)冷静に議論を尽し、会議を進めるのが良いと思う。その上で必要とあらば「得」のところで書いたように感情的になることができるなら、それが「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」の有りようの一つかもしれない。

H4.6/25初出〉

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.