UFO通信 |議論を偽論で終わらせないために(1) by Ufo

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 また、こんな例もある。友人と三人でいる時に、その二人が議論を始めた。「それは違う」とお互いに言っているのだが、そばで聴いていると両人とも同じ事を言っている。要するに、異なる用語で同じ意味の内容を表わしていたわけである。熱の入っているところへ水を差すようで悪いかな、とは思ったが割って入った。

「二人とも同じことを言うてるで」

 二つの用語について、共通する意味で使ってはいたのだが、両人とも日頃はあまり使わない意味で使っていたために、お互いに相手の使う用語を、日頃使いなれている意味にとった結果「違う」「違う」となったわけだ。

 総じて言えば、一つの言葉が複数の意味を持ち、一つの意味を表わすのに複数の言葉がある、という言葉の複雑な関係が招いた混乱が、議論の遅滞(ちたい)の原因になることがよくある。

 話はかわるが、思い出したことがあるので少し書いておきたい。「日本語では、言葉の意味の範囲は非常に限定されていて狭いが、〇〇語は広い」という意味のことを言う人がよくいる。

 日本と、外国のある国とを比較したりする時に、ちょくちょく出てくるのであるが、確かに英語なら英語を習い始めの頃、英和辞典をひくとこういう感想を懐くことがあるのはよくわかる。

 けれども、これは一概には言えないことである。我々は日常話す時に、ある単語にどれほどの意味の拡がりがあるのか、ということをあまり意識していないので、そう思うのだろうが、例えば「服を掛ける」「水を掛ける」「3に5を掛ける」「気に掛ける」「目を掛ける」「手を掛ける」「手に掛ける」「鍋を火に掛ける」「鼻に掛ける」「にも掛けない」……。

 これらは、和〇辞典には恐らく「掛ける」という一つの単語を引いて、それぞれの意味が書いてあって、それぞれの用例として出てくるものと思われる。日本語を習い始めた外国人がこれを見たら、どんな感想を懐くだろう、と考えてみれば、先に書いたことと全く逆の結果になるだろう。このことは簡単に想像していただけると思う。

 一生懸命考えてみても、「服を掛ける」という動作、「気に掛ける」という思い、「3に5を掛ける」という作業などが、とても同じものとは考えられない。もし英語であれば、この「掛ける」という動詞はそれぞれ別の動詞を使うに違いない。

 日本人である拙僧でさえ、なかなか共通点が発見できないでいるのだから、アメリカ人にとってはまさしく仰天ものだろう。日本語の中だけでさえ、言葉と意味の関係は複雑極まりなく、しばしば混乱がおきるくらいだから、近頃のように外来語が多くなると、一層混乱の度合いが増すものと予想される。日常会話では別にかまわないが、会議の場などでは、できる限り用語の意味の境目をはっきりさせる努力が必要だろうと思われる。

 続きは次号に持ち越すことになりますが、またよろしく。(つづく)

H4.3/25初出〉

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