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 日本ではこの「仏教僧の服は粗末なものであること」が、もうとっくの昔に忘れさられてしまい、一つ目の「遠くからでも一目で仏教僧とわかること」も、近年ほとんど忘れさられようとしている。

 拙僧自身も猛反省しているのであるが、一目で僧侶とはわからない服装で出歩くことは、厳に慎まなければならない、と思っている。

 なぜかと言えば、御自我偈の一節に「餘國(よこく)に衆生の恭敬(くぎょう)し信楽(しんぎょう)する者有れば、我れ復(ま)た彼の中に於いて為に無上の法を説く」(「楽」は「願う・望む」の意味)とあるからである。この経文と、日蓮大聖人の御下命である法華経流布・御題目流布とを考えあわせると、我々は常に、何時いかなる場合でも、法華経を説く態勢でいなければならないのではなかろうか。

 もし、我々が一目で僧侶とはわからない服装で出歩くとどうなるか。衆生は(僧侶と区別すべきでない部分があるのを、重々承知の上で使っています)我々が僧侶であることに気がつかないか、仮にカンの鋭い人がいて、僧侶と見破ったうえで、「今この人は僧侶でないということで自分の前にいるのだから」と恭敬し信楽していることを表わさないか、どちらかであろう。(勿論、全く遠慮しない人もいるに違いないが)

 とすると、我々はたとえ結果的であるにしろ「無上の法を説く」機会を失ったことになる。世の中、恭敬し信楽する人ばかりということはないだろうし、坊主の話なんぞ聞きたくもない、という人がいるのも事実であるが、たとえ百人に一人、千人に一人でも法華経を説くべきだと思うのだがどうであろう。

 ましてや、自分が僧侶であると見られないかも知れないと予想したうえで、更にはそれを狙って、一見僧侶でない格好で出歩くのは、もってのほかのことと思う。自ら「無上の法を説く」ことを拒絶してしまっては何にもならないではないか。

 たしかに、法衣・袈裟の類は現代の生活に不向きな点も多いし、僧侶だけが全く別の時代を生きるわけにもいかない。しかし現代の生活と一目で僧侶とわかる格好との妥協点を、皆で智恵を出し合って見つけようとする努力を怠ってはならないだろう。

 更に又、我々も凡夫であって、御本仏釈尊や日蓮大聖人がなさったこととそっくり同じ事が出来ないのも事実であるが、それでも一歩でも半歩でも近づこうと常に努力することは必要であろう。

 「常に努力する」ことが非常に難しいことであることは、自らを省みてよくわかっている。さてこそ「常勤精神」が強調される所以(ゆえん)でもあろう。しかし釈尊の教えである。精進せねばならぬ。

 こんな話を聞いた。親から受け継いだ財産でボランティア活動に寄附をしても、「今度は名誉が欲しくなったんかいな」と思うだけだ、むしろ、常日頃から地道に活動している方が本物だと思うと。三十才代前半の男性の言葉であるが、人は為した事の大きさよりも、払った努力の大きさで尊敬するものらしい。

 為した事の大きさで尊敬されている、とするのは、為した側の錯覚である場合がかなり多いようである。

H3.4/26初出〉

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