UFO通信 |日本のスポーツなぜ弱い(2) by Ufo

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 (二)の科学的、或いは合理的な練習法を採用しない点については、指導する側の怠慢の問題であると考えて良いのかどうか。

 科学的・合理的練習法を採り入れる意志があってのことなら、それをしない、又は出来ないというのは怠慢(たいまん)なのだろう。だが、もし先に書いたように、サディストが純真な子供や若者をイジメルだけの場であるなら、怠慢でもなんでもない、最初からそんなものは眼中にないのだから……。競技会への出場も、イジメル対象をつなぎ止めるための口実にしか過ぎないから、勝つ事は問題の外、ということになる。

 いやこれは脱線、もう少し真面目に考えてみよう。

 根性論者(つまり根性がすべてと考える人達)にとっては、どうも科学とか合理とかは邪魔になるものらしい。日本へ西欧から自然科学が入ってきた時に、宗教と科学との対立、という図式がワンセットになって入って来たからであろう、つまり心の問題を扱う(心の問題『だけ』を扱うもの、と受け取ったところに不幸の原因がある)宗教と対立するのだから、まさに心の問題である根性論とも対立するものだ、と考えたのかもしれない。

 事象を二つの対立概念に分けて考え、一方を切り捨てる、というのは西欧の思想の得意技であるが、根性論者も、どうもそれに乗ってしまったものらしい。その意味では根性論者も西欧的である、というべきであろう。但し実際に西欧人達は、根性論者が考える程には切り捨てているわけではない。(このことについては又いつか。ひょっとしたら、むしろ日本人の得意技かもしれない……)

 ひいき目に見て科学的であることは、日々正しいとされることが変化することでもあるから、充分それに追従することは、権威にかかわることであるかもしれない。逆に言えば、指導を受ける側の、指導理論に対する見識のなさ、合理的に物事を考えようとする姿勢の欠如を表わしているのかもしれない。

 (三)の競技を一種目に限らせる点については、かなり根深いものがあるように思われる。日本では伝統的に、一生一つの物事に打込む事が美徳とされる風潮があったようだ。と言っても儒教の影響を受け、武士道なるものが出来上ってきた江戸時代以後のことと思われる。或いは明治になって武士道について硬直した受取り方をした結果かもしれない。「二君にまみえず」なんてのも影響しているのだろうか。

 アメリカでは、学校のクラブはシーズン制が採られていて、少なくとも一年のうちに二種目以上のスポーツをする。阪神タイガースにいたバース選手など大リーガーとしては二線級の選手であるが、日本でやる気になりさえすれば三冠王になってしまう。 そのバース選手は、日本の野球を評して「野球しかしないから弱いんだ」と言っていた。筋肉の強さや運動の面から見ても、ゲームの見通しという面から見ても、複数の競技をする方が良いと思われる。

 一種目しかしないから、瑣末(さまつ)主義に陥(おちい)ってしまって「ボールを呼び込んで打て」などという、わけのわからない指導法がまかり通る結果になるのである。もっとも日本では、指導する側が他の競技を知らないのだから、選手の方では競技間の連絡をつけることが出来ないで、かえって迷惑かもしれない。(これは橋本聖子選手が自転車競技で成功しなかったことを念頭に置いている)

H2.11/20初出〉

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