UFO通信 |宇宙論の続きのようで、そうでないような by Ufo

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 確かに、自然科学の発展の中で、科学的に説明できていないことがあるのを率直に認めようとせず、「迷信だ」の一言で片付け、己の保全と金儲けとを企んだ贋学者がいたことも事実であるが、そんな輩(やから)に騙(だま)される方も、どうかしていると言えば言える。

 例えば、死後の世界をまだ見たことが無いからと言って、まだ観測、実験する手立てが無いからと言って、それが存在しないというのは安易な信仰に過ぎない。何時か見るかもしれないし、観測、実験することができるようになるかもしれないのだ。

 科学は万能だと信ずるのと根は一つ、つまり科学の万能性を保持する為に「科学によって説明できない事物は即ち存在しない」ということにしてしまうのだろうが、これではイワシの頭を信ずるのとそう違わない。まことに単純な理屈をも無視して、それで平気でおれるというのは、未知なるものが在ることの不安がいかに大きいかを示している。早く結論を得て安心したいのだろう。「在るかもしれないし、無いかもしれない」という状態に、きっと堪えられないのだろうと思える。

 先の贋学者もこの不安定な状態に堪えられなかったのかもしれないが、それを受け入れてしまってはどうにもならない。両方で安易な信仰を作り上げてしまった、と言うべきか。宇宙の秘密・存在の秘密を知りたいという希求(ききゅう)の余りの性急さに、双方で調子を合わせ、論理や証拠を無視し、取っ付き易い、心地よい、単純明解にすべてを説明できるように見える結論を得ようとするのだろう。さてこそ、超能力・UFO(私のことではアリマセン!)・新興宗教が流行するのである。何かが万能である、又はそれに近いと信じたい心が、こうしたものを次々に流行らせるのだろう。

 「以信代慧(いしんだいえ)」という言葉があるが、「慧」について条件をつけなければ、大体の人の態度はこれである。イワシの頭に始まりエホバに至るまで、似非科学から壮大な宇宙論に至るまで、信ずる人の大部分は「以信代慧」なのだ。つまりここでの「信」とは、不安定な状態に堪えられない弱さ、証拠集めや論理の構築・駆使という労力を省く怠惰・無反省の代名詞に過ぎない。

 では「慧」という文字に付く条件とは何なのか、「以信代慧」の真の意味とは何なのかと言えば、「法華経」「御妙判」を読み、先師の解説を聴けば解るという仕掛けになっているはずだが、これが難しい。それこそ一生を費やしても惜しくないことであり、私もせめて十回や二十回生れ変ったとて、今生と同じ生活をしたいと思っているのだが、そう上手く行くかどうか、今が二十回目だとしたら、二十一回目はどないなんねんやろ。

H1.11/23初出〉

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