自在生活ノススメ |
現代の若者たち、特に恋愛や結婚の相手を求める人に対して「あなたの理想のお相手は?」「自分はどのような人物でありたいですか?」というインタビューの場面では、共通した答えが多いことに気付く。
その答えは、まさに繊細な彼等・彼女等の気質をよく現しているようだ。いわく「思いやりのある優しい人」「相手の立場に立って物事を判断できる人」。 確かにもっともな答えであり、なんと理想的だろうと思う。しかし天の邪鬼な私には、このような答えは言葉としては美しいが、現実の人間関係で実践し生涯貫き通すのは、凡人には不可能なことのように思えてならなかった。なぜなら、真の思いやりとは見返りを求めない「無償の愛情」であり、だからこそ、そんな愛情を持ち続けることができるかどうか疑問だったからだ。 また、常に相手の立場に立って物事を考えたり判断するのも、実践するとなるとなかなか難しいだろう。 ただし私は、思いやりや優しさ、あるいは相手の立場に立とうとする姿勢を否定しているのではない。むしろ、人間は個々別々の存在であるからこそ互いの存在価値を認め、相手に思いやりや優しさを持って接することは大切である。 と同時に、私たちは個々に独立した命を持つ異なる人格体だ。だから、他人の領域を侵すこと、極端に考え方を統制することなどは許されるべきで無い。それに、私自身が人間的に未熟であるのに、どうして相手を理解することができるだろうか? ところが、こんな考えを持つ私を変えてくれた「理想の人」に、大学生のとき出会った。それは、作家であり詩人の宮沢賢治である。その有名な著作「雨ニモマケズ」の中にはこうある。 「ミンナニ デクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 賢治が理想としたのは、『法華経』の第二十章に説かれている「常不軽菩薩」の生き方だとを知る。それは、褒められたり理解されることを期待するのではなく、保身のために相手の立場を肯定するのでもない。皆が仏の働きを担う本質的に尊い立場であること、そのことを知るからこそ相手に敬意を抱くのであり、自らは世間的には「デクノボー」に過ぎないというのだ。 目から鱗(うろこ)が落ちた気がした。 |