自在生活ノススメ |感応の時間 by Kaijo

想

小坊主のつぶやき

いつそば「観心の章」

いつそば「開目の章」

自在生活ノススメ

UFO通信

のほほん評判記

 自慢ではないけれど、字はキレイではない。特に硬筆はひどく、他人にお見せすることなどできない。宅急便の送り状や、何かの窓口で申込書を書くときなど、どうもコソコソしてしまう。子供みたいな字を書くと、人格まで疑われそうな気がするからだ。名は体を、字は心を表す……。

 子供の頃は大人の字を見て、自分も大人になれば自然と達筆になると思っていた。当然そんなことは無く、中学生の頃から大して進歩していない(先日、実家に帰ったとき、昔の文集が出てきてそれが判明した)。不断の努力なしに、何かが急に上達する訳はないのだ。

 ところが人間よくしたもので、必要に迫られれば、ある程度は何とかなるもので、塔婆(とうば)や位牌(いはい)はそこそこ書けるようになった。もちろん「ある程度」とか「そこそこ」とか、それなりのレベルである。キレイな字を見るとため息しか出ないし、流麗(りゅうれい)な草書体(そうしょたい)の書を見ると、とても人間業と思えない。

 塔婆の字の上手い下手で、功徳(くどく)に差があるとは考えられない。とはいえ、キレイな字の塔婆のほうがありがたく感じる。文字とは所詮(しょせん)、情報を伝達するための記号であるから、「判読できればいいんだ」と苦しい言い訳をしていた時期もあったが、開経偈(かいきょうげ)の『色相(しきそう)の文字は即ち是(こ)れ応身(おうじん)なり』の一句を読むたびに、反省する毎日を送っている。やはり仏さまには仏さまにふさわしい字であるべきだし、お題目は格調高く書くべきだと思う。

 ところで、うちの本堂の壁にご信者さんから頂いた額がある。そのご信者さんは書家で、書道師範でもある。あるとき揮毫(きごう)してもらうことになり「感應」と書いて頂いた。もちろんというか、やはりというか、当然達筆である

 「感」の字の下の心は波打った横線だし、「應」とは「応」の旧字で、ボーっと見とれていると「鷹」に見えてくる。お参りに来られた方も「何て書いてあるのですか?」と質問される。「かんのう、と書いてあります」と返答すると、ほとんどの場合「?」という表情をされる。「かんのう」という読みと漢字が結びつかないのだ。

 これは日本語の難しさの一つで、同音異義の言葉の多さに由来する。「官能」「完納」など。そこで「感應」と字を説明すると「そういえば、そんな字ですナ……」と言いながら、表情がもう一つすっきりとしない。崩した字が読めても、その意味が解らないのだ。日常生活の中で使われる言葉ではないので、これは当然のことだ。「人の祈りが神仏に通じて、その反応があることです」と大ざっぱに説明すると、納得され「あぁ、お寺らしいですね」と安心した表情をされる。こちらも安心する。

 続けてご本尊・戒壇(かいだん)・お題目、あるいは身・口・意(しん・く・い)の「三業(さんごう)」といった教義について、雑談を交えながらお話する。どこまで伝えられたのか確信はもてないが、壁に掛けられた「感應」という判読しがたい文字が媒介(ばいかい)した、ちょっとした感応の時間だったのでは、と本人は思っている。

 やはり字はキレイにこしたことはない。そのためには、普段から精進しなければ……。と思いつつも、この原稿をワープロで書いている。こんな調子だから、いつまでたっても字は下手なまま。自国語の表記に不自然があるうちは、とても自在に生活しているとはいえません。

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.