自在生活ノススメ |もう少しがちょうど良い by Ryue

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 私はここ二〜三年、冬になると決まって体調を崩していた。まわりからは「三十歳代から四十歳代へと移る時の体の変化ですよ」と言われ、なんとなく納得していた。

 当時のことを考えてみると、別に暴飲暴食をしていたつもりはなかったが、ついつい夜型人間になってしまい、子供が寝てから寺務などをしては、つい一日四食になってしまうことがよくあった。このことが第一原因であったとも考えられる。

 腹八分目ということはよく分かっていても、なかなかこれが難しい。自分ではこれぐらいが八分目と思っていても案外自分勝手な適当なハカリなので、充分おなかは一杯になっている。本当は「もう少し欲しいな」と思うところがちょうど良い具合なのである。

 何事も欲しいものが充分に備わると、幸せになるはずである。しかしややもすると、すべてが備わったことを当然のことと感じて感謝の心を忘れてしまう。慢心から価値観が変わってしまい、しあわせではなく、しわよせとして別のところに悪い影響が出てくる。なぜか、充分に心を満たすには十二分以上(必要以上)のものが必要になってくるからだ。つい増上慢(ぞうじょうまん=おごり高ぶること)になって自分の意見を無理に通したり、相手の気持ちも考えず感情的に怒ったり、責任を転嫁(てんか)したりして、外には信用を無くし、内には体調を崩してしまう。欲は限りないものだが、満ち過ぎればたいていは自分を見失ってしまうことになる。

 もう少し欲しいと思うところぐらいが、ちょうど良いのではないか。そう考えると、あれもこれもと思うより、今の状態で結構満足できる、有り難く思えるようになる。すると短気であった自分がいらいらすることも少なくなり、気持ちも落ち着く。その上、今まで何気なく見ていたまわりの出来事に、新たな発見と感動を覚える。その「ふとしたこと」で自分を見つめることができる。心の豊かさ、心のゆとりからなのだろう。

 よく言われることだが「もうリミットが一時間」と思うか「まだ一時間ある」と思えるかは、心の状態による。

 私は、毎日のように車を運転している。何げなく周りの車のナンバーを見る。例えば「11・21」とか「39・99」とか一桁だけ違う数字のナンバーを見つけた時、一つだけそろっていないことが「もう少しがちょうど良い」と知らせてくれているような気になる。そして、たまたま四桁とも同じナンバーの車に出会ったときは、「心の状態が慢心になっているぞ」と訴えているように受けとめる。自分の心を見つめる機会を与えてくれたと受けとめ、車の暴走と心の暴走(慢心)にブレーキをかけてくれることもある。

 心のゆとりを持つ方法を、お釈迦さまは法華経に「少欲知足(しょうよくちそく=欲を少なくして足ることを知ること)」と教えてくれている。欲を無くすのではなく、少なくしてさらに満足を知ること。言い換えれば「有り難い」と感謝の気持ちを持つことが大事であると諭(さと)してくれている。今の状態でも結構幸せなんだ、有り難いことだと思う心が無ければ、いつまでたっても不平不満は無くならず、心のゆとりを得ることは決して出来ないだろう。

 お釈迦さまの教えが、他の人の体・心を通して、ものごとのちょとした変化によって私たちに「足ることを知る」心を気付かそうとして下さっている。気が付くか気が付かないかでは、人生が大きく変わってくるだろう。

 体の健康のためにも、心の健康のためにも、仏さまからのメッセージをしっかりと受け止めることができる「心のアンテナ」の感度を、いつも良好にしていなければならない。「もう少し欲しいな」と思うところでちょうど良いと思える心が、アンテナの感度を良好にするカギである。

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