自在生活ノススメ |花より学ぶ by Kuririn

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 私が生まれ育った田舎のお寺の裏庭には、大きな池があった。見るからに瓢箪(ひょうたん)のような形をした池で、周りには四季折々の花々が咲きほころび、季節ごとの香りを漂(ただよ)わせていた。

 幼い頃、近所の友達とこの池でよく遊んだものだった。夏になると鯉(こい)や鮒(ふな)を釣ったり、周りに集まってくるトンボを追っかけたり、池の中に入って水遊びをしたりして、どろんこになって遊んだものだ。そして、その池のちょうど真ん中あたりに「蓮」があった。

 夏になるとその蓮が見事に美しい花を咲かせていたのを、今でも覚えている。しかし、その頃は蓮の花の意味など知るよしもなく、ただ美しいものを美しいと感じ、見ていたに過ぎなかった。

 父の影響か、お坊さんの道を歩みはじめた私は、初めて幼い頃に見て育った蓮の花の意味を知ることになる。蓮の花はなぜ美しく、尊ばれるのか。それはあの汚い泥の中で染まることなく成長し、無垢(むく)な花を咲かせるからである。泥の中で育ちながらも、かえってその泥を養分として吸収し、あんなにも美しい花を咲かせる。だからこそ、気高く感じられるのだろう。

 そこで我々人間もあの蓮の花にあやかるようにと、仏教では蓮の花を尊ぶ。すなわち不遇困難(ふぐうこんなん)、恵まれぬ環境にあっても決してそれに負けないことが大切であり、その精神がまた尊いのだ。

 とかく人は誰でも、汚い・汚らわしいものには目を背(そむ)けがちになり、反対に綺麗で美しいものには目を奪われがちになる。汚(けが)らわしいものはたちまち捨て去られ、美しいものはいつも大切にされる。このように私たちは、物事を一方的に決めてかかることが多い。仏さまは、それを強く戒(いまし)められている。

 実は泥の中に備わっている重要な養分こそ、蓮の花を美しく咲かせるのだ。泥は汚い、蓮は美しいという皮相的(ひそうてき)な価値判断だけで、その奥に潜む真実の意味あいを感じとれない浅薄な心こそ捨て去るべきだろう。

 すべてのものに、そのもの独自の価値を認めて生かすという生き方。ここに仏教の特質がある。

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