自在生活ノススメ |ノンビリを考えませんか? by 東

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 木枯らしが吹く寒い冬、暖かい部屋でこたつに入り、ノンビリとミカンでも食べながら(中には昼間からアツカンで一杯)過ごす一日。日頃は頑張って働いているんだから、このようにノンビリ出来る余裕のある日があっても良いのではないか、と考えている方も多いでしょう。

 その人が日頃一生懸命に働く姿を見ていないで、このノンビリした一日だけの姿を見れば、怠(なま)け者と思われるかも知れません。けれどもノンビリと過ごす人にとっては、心の洗濯をすると共に、緊張のほぐれた状態で、頭の整理をしている時でもあるのです。

 ところが、このノンビリ過ごせる日が家族サービスの日になったり、会社の接待で潰れたりします。このごろはこの方が当り前になり、ノンビリと過ごすことは時間の無駄で、働ける時には働き、遊べる時には遊び、動きが鈍くなれば自然とノンビリした生活になっていくのだから、と考える人が多いように思います。

 では、ノンビリは本当に時間の無駄なのでしょうか。新幹線ができるまでは、大阪と東京の間を日帰りで往復することは、飛行機を除いてほぼ有りませんでした。それまでは東海道本線の列車に乗り、長時間車窓から風景を眺め、駅弁を楽しみながら、その地方の特色や四季の移ろいを感じる人も大勢いました。それが心の洗濯になり、新しい発見や発想の転換にもつながっていくのです。ところが、新幹線では単なる移動手段のみと化し、大阪の点と東京の点を時間的に結ぶだけの感覚に近づきました。その分余った時間は有効に使える反面、線という動きの中で得るものは少なくなり、何だかさびしいものがあります。今はこのように感じる人は少ないようですが、新幹線が開通した当時は、そんな会話もされていたのです。

 また最近では、子供を自動車や自転車で慌ただしく保育所や幼稚園などに送迎する光景も見かけます。これも家と行き先の点を結ぶだけで、線にあたる通園路での色々な事を意識するのは困難です。

 この様なことは食事にも言えます。準備の時間と手間を省くために、冷凍食品・出来合物が食卓に並び、作る楽しさと同時に味覚までもが失われてきています。

 これらのことで、人は日常のものの見方が短絡的になり、欲しいと感じたらすぐ手に入れることに主眼が置かれます。そのため何故それが必要なのか、それを得たことがどれほどの意味を持つのかを、考える余地が持てなくなるでしょう。

 因・縁・果・報という仏教用語があります。その中で個人が主観的に見る原因と結果の「因」「報」しか見れなくなり、客観的に見る原因と結果の「縁」「果」が見えなくなってきているのが、今流の時間の無駄を省く生活ではないかと思います。このような生活を改め、頭の整理が出来るノンビリとした時間で「縁」を感じ、「因縁」という総合的な原因によって生じた「果報」という結果で行動のできる、大河の流れのような生活を目指したいと私は考えるのです。

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