お釈迦(しゃか)さまは、ご自身が永遠の寿命を持ち、これからもずっと教えを説き続けることを約束されました。そして、それでもその身をこの世から隠される理由を、次のようにお説きになったのです。
「私の寿命は永遠に尽きることはないが、あえて今この寿命が尽き、死にいたる姿を見せるのだ。なぜなら私がいつまでもこの世に姿を見せていると、徳のうすい者は感謝の心を忘れて善い行いを修めようとしないばかりか、かえって心が貧しくなり、欲望にとらわれ、乱れた考えを持つようになるからだ。
もし私がこの世で不滅のままでいると、きっといい気になって怠けだす者が後を絶たないだろう。彼らはいつでも私に会えると思うと、知らず知らずの内に頼ってしまい、仏に会い難いがために起こる敬いの心さえも持たなくなってしまうだろう。
だから私は人々を正しい教えに導く手だてとして『仏がこの世に出現し、またその仏に出会うことはまれである』と説くのだ。仏という存在には、百千万億劫(ひゃくせんまんのくこう)という、それはそれは遙か長い時間の中でも、まれに出会える者もいれば、出会えない者もいる。こう聞けば人々は、仏に出会うことがいかに難しいかを肝に銘(めい)じ、仏を慕(した)って一心に信仰し、善い行いを修めようとするであろう。
仏の寿命は実際には尽きることはないが、そのように人々を導くために、あえて死に至るのである」
このようにお釈迦さまは、先に述べた仏の『永遠の寿命』と、それと矛盾するように見えるご自身の『死』との関係を、ていねいに説かれました。そこには人々の信仰心を目覚めさせるための、深いお考えと慈(いつく)しみの心があったことを、私達は忘れてはなりません。
そうしてお釈迦さまは、なおも仏の存在と導きについて、優れた医者とその子供達の物語をもってご説明されるのです。
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