いつそば「我聞の章」 |第23話「妙薬を携えて」 by Shougyo
話

仏さまのこばなし

いつそば「我聞の章」

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グリトラクータ童話

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 生死無常(しょうじむじょう)。尊きお師匠さまのお示し下さった、最も基本的な教えだ。そして、私たちが使う言葉にも、この生死無常の考え方が当てはまる。例えば、昭和の日本では「成人病」という言葉が生まれ、それが今では「生活習慣病」と呼び名が変わったように……。

 私の名は阿難(あなん)。今日もお釈迦さまの織りなす光と風の世界を旅している。

 さて、今から三千年前に生きたお師匠さまと私たち弟子にとっては、生活習慣病などまるで無縁の病気だった。それに、多くの人々が自分の足で歩く以外に移動手段の無かった時代、自分の手で苗を植えて刈り取る以外にお米を作る方法が無かった時代には、意識して適度な運動をする必要も無かった。

 一方、私たちがお師匠さまについて何日もかかって遊行(ゆうぎょう)した道のりを、現代人はわずか数時間で移動してしまう。だからこそ、腹八分目の食事と適度な運動が、生活習慣病を治療する最良の方法なのだとか。はたして、暖衣飽食(だんいほうしょく)の時代を過ごす日本の人々が本当に幸福なのかどうか、ついつい疑問に感じてしまう。

 また、生活習慣病から抜け出し健康を取り戻した人も、その健康を維持するためには適度な運動を続けねばならない。それも、健康であるからこそ運動にいそしむことができるのだから、健康と運動は「タマゴとニワトリ」の関係に似ている。

 尊きお師匠さまは、仏としての寿命が永遠であると明かされた。菩薩の修行を積み重ねた結果として悟りを得たのではなく、無限の過去から無限の未来まで、常に仏として存在し続けていると。

 では、なぜお師匠さまは永遠でいられるのか?答えは、始めの無い始めから、終わりのない終わりまで、命あるものを永遠に救済し続けておられるが故に、仏であり続けておられるから、ということになる。

 仮に「仏の救い」を適度な運動に例え、「仏の悟り」を健康な体に例えてみてはどうだろう。運動が健康を保ち、健康であればこそ運動も可能であるのと同様、私たちを常に導くという「救いのご修行」があればこそ、お師匠さまは永遠の命を保っておられるのだ。こうして、久遠より続く救いと悟りの循環が、尊きお師匠さまの永遠の命の中に息づいている。

 そして尊きお師匠さまは、そのことを「如来の一切」という言葉で表現され、久遠からの直弟子である「本化(ほんげ)の菩薩」に対し、末法の世における布教の全権を託された!その委嘱に当たっては、荘厳にして盛大な儀式が執り行われ、本化の菩薩方も不惜身命(ふしゃくしんみょう)の決意でこの尊いお仕事に臨むと誓われた。

 まさに、お師匠さまが入滅されて二千年が過ぎた末法の世となるや、お師匠さまの永遠にわたる救いである因行(いんぎょう)と、久遠からの悟りである果徳(かとく)を包み込んだ妙薬「南無妙法蓮華経」を携えて、本化の菩薩はお師匠さまとのお約束通りこの世に姿を現された。その名を「日蓮」と名乗って……。

 久遠からの直弟子として、お師匠さまの永遠にわたる大慈悲を伝えようとされた日蓮聖人を通して、皆が「如来の一切」を我がものとして活動したその時、各々が暖衣飽食の無価値を自覚し、究極の個人の幸福である「世界平和」が実現するだろう。

妙法蓮華経「如来神力品第二十一」より/つづく)

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