いつそば「我聞の章」 |第11話「平等な資格」 by Shougyo
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仏さまのこばなし

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 制服の胸のボタンを
 下級生たちにねだられ

 もう二十年前ほど前になるだろうか、日本の斉藤由貴さんという歌手が「卒業」という曲で華々しくデビューしたのは……。

 私の名は阿難(あなん)。三千年近く光と風の世界を旅している私にとっては、あの曲もつい最近のヒット曲のように思える。制服の、心臓に一番近い第二ボタンをもらうという行為は、ただ相手が身につけていたモノをもらうというより「相手の心を自分のモノにしたい」という願いの表れなのだろう。

 尊きお師匠さまであるお釈迦さまから、卒業証書である「成仏の約束」をいただくことも、まさしくお釈迦さまのお心をいただくことだと思う。それは、お釈迦さまのたった一人の息子にとっても、同じことだったに違いない。そう、お釈迦さまには奥さまも子供もおられた。子供の名は羅ゴ羅(ゴ=目+候・らごら)、十大弟子の一人に数えられているお方だ。

 お釈迦さまは、全人類、もっと言うなら生きとし生けるものすべての本当の幸福を求めて、お城に奥さまと子供を残して出家された。そして悟りを開かれ四十年あまりが経ち、法華経をお説きになる中で、お弟子となられた羅ゴ羅尊者にも「遠い将来、蹈七寶華如来(とうしっぽうけにょらい)になる」という、成仏の約束をお与えになったのだ。

 そして、私はその時の喜びを永遠に忘れはしない。なぜならこの私も、羅ゴ羅尊者と同様に「山海慧自在通王如来(さんがいえじざいつうおうにょらい)になる」という約束を、お釈迦さまよりいただいたからだ。

 現代の日本では、教養の乏しい人を「無学な人」と呼ぶとか。しかしお釈迦さまは「もう学ぶことの無くなった人」「これ以上学ぶ必要の無い人」のことを「無学」とされ、まだまだ学ぶべきことの有る人を「有学」または「学」と表現された。

 尊きお師匠さまは、法華経の第九章にいたって「学の人」「無学の人」合わせて二千人にも、「遠い将来、宝相如来(ほうそうにょらい)という仏になる」と記した卒業証書を授与された。はたして私たちにとって「学」とは、これまでに学んだことなのだろうか?それともこれから学ぶべき対象のことなのだろうか?そんなことを考える時、言葉の一つ一つに深い意味を感じずにはいられない。

 お師匠さまが、まだ学ぶべき必要の有る人たちにも卒業証書を授与された事実を、私たちはどう受け止めれば良いのか。仏道を志した当初、すでに成仏の保証を授かる……。私たちが仏になる時とは、本当に遠い将来なのだろうか?それとも……。

妙法蓮華経「授学無学人記品第九」より/つづく)

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