「仏の教えをどう役立てるか?」
このような問いを、私は時々とても奇妙に感じてしまう。なぜなら「役立てる」となると、仏教が「何らかの目的」のための手段となるからだ。
しかし、宗教とは目的そのものを問うものだろうし、さらに、役に立つかどうかを判断する主体そのものを問うものではないだろうか。つまり宗教は手段ではなく、主観・観念の問題でもなく、生き方そのもの、人生そのもの、人格そのものの問題だと思っている。
個人の問題・社会の問題を、単なる知識や手段で何とかしようとするのは、自分自身のありかたを不問にすることにつながる場合もある。それは結局、自分自身変わらずにいることを好んでいるだけで、判断する自分の正しさを不問にしているだけにはならないだろうか?
ものごとを判断するには、何らかの基準を前提にしている。しかし、宗教は「判断する基準」そのものを問うものではないだろうか?だから、自分がよって立ってきた前提を出る必要があり、まず信じなければ理解できないものなのだろう。
自分がよって立ってきた前提が変わるということは、生き方が変わり、自分のあり方が変わるということだろう。そして、自分と社会は互いに一方を具える関係にあることから、社会のあり方もまた変わるということではないだろうか。
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