とある一部始終。
「のどが渇いたなぁ、コーラが飲みたい。お?自動販売機!ちょうどいい所にあった。日本って便利だなぁ」
まずはコーラがあるか確認し、お金を入れる。ボタンを押してコーラを手に入れる。う〜ん満足。
問題はなさそうである。望む物が手に入ってさぞ満足だろう。ではボタンを押した後に自動販売機が「あなたの健康状態を見てウーロン茶にしておきました。ギー……ガチャン!」ときたらどうだろう。たいていは「ふざけるな!」となってしまうに違いない。
とまぁ、くだらない話をしたが、時に私たちは仏さまに同じことを求めてはいないだろうか?「どうかお救いください」とお供えやお祈りをし、頭を下げて敬っておきながら、一方では「でも救いの形は私が決めます」と言ってはいないだろうか?「どの様な救いが私に必要なのかは私が決めます。それ以外を救いとは認めませんよ」と。
子供はいつでもお菓子やおもちゃを欲しがる。しかし、時にはそれ等を与えないことが本当に子供のことを思う親の慈悲だということを、子供は理解できないだろう。良縁成就・受験合格・心願満足。魅力的なボタンばかりである。そのボタンを欲望まかせに押し続け、与え続けられることが救いだと思うのは、私たちの心が子供と同じだからだ。
一方、親である仏さまは、常に私たちを救う方法を考え、私たちに必要な「救いのボタン」を常に押し続けておられる。たとえそれが子供の望むものではないとしても、本当の意味で子供のためになるものだと分かっておられるから。
時にはあえて心を鬼にする親の慈悲を、子供の頭では理解できない。しかし、そこで仏の子である私たちが自分のものさしをひとまず置き、親である仏さまの慈悲の中で生きていることを心の底から信じた時、今まで見えていなかった本当の救いが見えてくることだろう。
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