lotus column 近しといえども… by Koushin
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 いくたびも読み、何度も解説をしていたのに、なぜ気づかなかったのか。文字上では読んでいるつもりでも、それはどこまでも「つもり」の世界で、読めていないのだ。

 初めて法華経の「自我偈」を読んでから、すでに四十年は過ぎている。読経をした回数は何万回にもなるだろう。そして、人には「このお自我偈は一切経の眼目で、永遠の仏さまが説かれている有り難いお経なんですよ」とお話をしていながら、自分自身はその仏さまがどこにおられるのかも知らないまま、今日まで過ごしてきた。なんと恐ろしい罪を犯してきたのか。

 お釈迦さまは「近しと雖(いえど)も而(しか)も見ざらしむ」と示され、いつでも側にいるよと言われている。にもかかわらず、そのお言葉の前に「顛倒(てんどう=転倒)の衆生をして」と述べられているように、私はお釈迦さまを信じることの出来ない顛動(てんどう=転動)の愚か者であったのか。

「慧光照すこと無量に、寿命無数劫、久しく業を修して得る所なり。汝等(なんだち)智あらん者、此(ここ)に於て疑を生ずることなかれ」

 このお言葉を信じ、共にご修行が出来る喜びを感じて読経し、日々の生活を送ることができればと、少し気づいた私である。

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