檀家参りの時間、法事の時間、会合の時間、あれやこれやの時間、時間、時間……。ふと考えてみると、まわりに合わせる時間ばかりで、いつしか自分のものであるはずの時間が無いことに気づく。
いま書いているこの原稿も「今日中に!時間厳守!」だと。だからといって、自分の時間を主張するほどの勇気は私には無い。なぜなら、まわりの時間を厳守することは歓迎されても、自分の時間を厳守することは歓迎されないからだ。
これに逆らって自分の時間をかたくなに守ろうとすれば、「お前は社会不適応者だ」と変人扱いを受ける。ほどほどにしておかないと、社会生活に支障をきたすことは誰もが知るところだろう。
しかし、少なくとも「自分の時間」という名の充電は必要ではないだろうか。充電があればこそ、必要な時に放電できるというものだ。電池切れでは、与えたくとも与えられない。
「仏法を習い極めんと思わば、いとまあらずは叶うべからず」(報恩抄)
明日からは「いとま」という名の自分の時間を持とう。仏法のために、衆生のために!だから、今夜こそは勇気を振り絞って寝る。自分の時間を厳守する!嗚呼、明日は今日となり、ただいま午前三時。
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