lotus column 人の振る舞い by Kousho
what's new

 「いくら信仰していても、人としての振る舞いが出来ていなければ、その信仰はニセモノである!」という言葉をよく耳にする。

 この場合の「人の振る舞い」とは一体何を指すのだろう。道徳的な言動を意味するのか?だとすれば、その実践のために宗教が必要だとでも考えているのだろうか?

 法華経には常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という出家が登場する。法華経の行者・日蓮聖人は、ご自分の本地(ほんじ=根本の姿)を上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)であると自覚し、その修行の規範として常不軽菩薩を手本とされた。

 常不軽菩薩は「常に人を軽蔑(けいべつ)することなく尊敬できる」お坊さまで、お寺の本堂で仏像を拝むのではなく、またもっぱらに経典を読誦(どくじゅ)する訳でもなく、ひたすら道行く人々を拝んで歩いた。常不軽菩薩のご本尊は、実は世間の人々だったのである。

 日蓮聖人のお言葉に「常不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐(ほんかい)は、人の振る舞いにて候いけるぞ」とある。人の振る舞いとは「いかなる人をも軽蔑せず、いかなる人をも尊敬すること」だ。

 では、なぜそのような難事が実践できるのだろう。それは自己の修練では得られない。教主釈尊の金言(きんげん)を無条件に信受(しんじゅ)した時、対面する相手がお釈迦さまに見える。その時に実現する!信ずべし、崇(あが)むべし。

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.